第一章
「君。……授業中は、帽子を取りなさい」
ぼくは普段、あまり学生に話しかけることはない。黙々と講義をこなし、終了時間の十五分前には教室を去る。余計な雑談はしないし、アンケートも出席もとらない。
 学生から見れば、講義が終われば記憶から消えてしまう、名前を覚えるまでもないような教師。それがぼくだった。
 その日、彼女に声をかけたのは、まったくの気まぐれだった。
 あえて言うならば、彼女が最前列の真ん中で堂々と着帽していたから、目についた。自分が学生時代に一度、帽子を脱げと注意されたことがあったし、教室での脱帽は最低限のマナーだと思っていた。だから、注意した。
 だが一方で、講義の時間はきっちりと計算して組んだもので、一人の学生のために時間を使うなんてもったいない、どんなスタイルで講義を受けようがそいつの勝手だし放っておけばいい、とも考えていた。つまり、ぼくが彼女に積極的に注意をする可能性は、五分五分程度くらいだったといえる。
 彼女は顔を上げた。くりっとした大きな目がこちらを見た。赤茶けた色をした、小動物のような目。不思議そうに首をかしげながら、彼女はこう言った。
「うん、わかった」
人形のような手が、すっと帽子を持ち上げる。帽子の下から現れたのは――ふわふわとした茶色い髪と、白い包帯に半分ほど覆われた頭部だった。
「……!」
「ねえ、あれって……」
「うっわー、かわいそ」
学生たちがざわめきはじめた。帽子で怪我を隠していた少女に、横暴な教師が無理やりに脱帽を命じた……彼らは、そう思ったのだろう。
 そんな中、当事者の少女は堂々としていた。誇らしげにすら見える。
 一瞬迷ったが、ぼくは結局こう言った。
「……包帯を巻くのは個人の自由だが、君は頭に怪我なんてしていないんだろう?」
「…………っ?」
そのとき初めて、少女の表情が変わる瞬間を見た。
 戸惑いと驚きとが混じったような顔。それはやがて、唇の端を吊り上げた笑顔へと変化していった。
 ぼくはその少女のことをまったく知らなかった。だから必然的に、彼女の笑顔を見るのはそれが初めてだった、と言える。その笑顔はどこか容姿とはちぐはぐで、幼い。うまくは言えないのだが――何かがずれている、そんな気がした。
「せんせいは、とってもすてきね」
新体操の選手のような手つきで頭の包帯をくるくる巻きとって、彼女が凛とした声でそう言ったとき――教室のざわめきが止んだ。彼女の声は、ぼくとは違いマイクを通していないにも関わらず、教室全体に美しく響いた。怪我をしていないのに頭に包帯を巻いていたという奇妙な事実と、彼女のまとう空気の異常性。それは、他の学生たちにも感じ取れたのだろう。世界のはざまに投げ込まれたかのような強烈な違和感を、ぼくと彼らは共有していた。
 張りつめた空気の中、ぼくは少女には何も言わず、講義を再開した。
 講義が終わる瞬間まで、最前列に座った少女の丸い瞳はずっと、ぼくを食い入るように見つめていた。まるで初めてサーカスに連れてこられた子供のように、うっとりと。ぼくも、そんな少女の姿から目を離せなかった。
 これが、ぼくと七ツ谷日苗乃の出会いだった。

 研究室のドアがノックされる音で我に帰った。少し眠ってしまったようだ。そういえば、昨日は遅くまで論文を書いていたのだ。
「は、はい」
少しかすれた声で返答しつつ、扉を開く。
「せんせい」
鈴のような声が、ぼくをそう呼んだ。そこに立っていたのは、先ほどの講義で、ぼくが注意をした少女だった。ショッキングピンクのシャツに、黒いパーカー、同じく黒のフリルつきスカートを着こなしている。縞柄の二―ソックスと底の分厚いスニーカーが少々ボーイッシュだ。大学生にしては幼い服装だが、背の低い彼女にはよく似合っている。
「ねえ、せんせい」
無垢な瞳でぼくを見上げるその姿は、子供のように見えた。
 甘えるような声で、彼女はこう質問した。
「なんで、わたしが本当は怪我してないってわかったの」
「……ああ」
ちょっとだけ間を置いて、こう答えた。
「実家が病院を経営してるせいか――なんとなく、わかるんだ。そういうの」
本当のことを言いたくなかったので、そう嘘をついておいた。ぼくの実家は平凡な商家であり、病院などではない。彼女の嘘を見破れたのはもっと別な理由による。ぼくはある超能力を有しているのだ。
ぶっちゃけてしまえば――それは、ある種の透視能力。何もかもがどこまででも見える、という万能な能力ではないが、皮膚に傷があるかどうかくらいは容易に見える。
自分は超能力者だ、なんてことをいきなり告白しても狂人扱いされるだけだろうと判断し、嘘をついたというわけだ。
「へえ、すっごいね。さすが、せんせい」
少女はあっけらかんとした調子でそう褒めた。
「は?」
そんなことを言われたことは、今までなかった。そもそもこの力を持っていることと、ぼくが教師であることの間には何の因果関係もないので、「さすが先生」というのは根本的におかしい言葉なのだが……まあ、悪い気はしなかった。
 ぼくは正直なところ、かなり驚いていた。気味が悪い、と否定的な言葉をかけられたことは何度もあるが、こんな風に褒められたのは……たぶん、初めてなのだ。
 不可思議で奇妙な少女ではあったが、悪い子ではないのではないか。そんなことを思ってしまってから、少し褒められたくらいでそんな考えに至る自分は本当におめでたい男だと気づく。
「ぼくも、ひとつ聞いてもいい?」
ぼくがおそるおそる切り出すと、少女は首をかしげた。
「なあに?」
「その……どうして、頭に包帯を巻いてたの」
聞いてはいけないことかもしれないとは思ったが、半ば勢いでそう聞いてみた。
 少女は特に何と言うこともない、と言いたそうに即答してきた。
「せんせいに、気づいてほしかったの。ああいうかっこうしてたら、せんせいはわたしに気づいてくれるって、思ったから」
不意打ちの大胆告白だった。ぼくは狼狽する。
「そ、それは……どういう……」
「……せんせいはね、とってもきれいなの」
少女はうろたえているぼくの顔をまっすぐに見て、恍惚とした表情で語った。
「きれい。ずーっと見ていたいくらいに、きれい」
少女は何度もそう繰り返したが、「きれい」というのは明らかに男に言う褒め言葉ではなかった。それに、ぼくはそんな言葉が似合うような美男子では絶対にない。少なくとも、外見を褒められたことなんて一度もない。
 だから、こう言った。
「ぼくは、人にそんなことを言われるような見た目じゃないよ」
少女は猫のように目を細めた。笑っているのだ、と気づくまでに数秒かかった。一風変わった表情の作り方だ。
「そういう意味じゃない。せんせいの思ってるようなことを言ってるんじゃないの」
歌うように、彼女は言う。
「いつか、せんせいにもわかるときが来る」
何と答えたらいいのか考えていると、
「ふふ。せんせい、困ってるのね。かぷかぷ」
と言われた。
「……かぷかぷ、って?」
ぼくの問いに、少女は心底不思議そうな顔になった。
「せんせい、知らないの? クラムボンは、かぷかぷ笑うんだよ」
何のことかと一瞬考え込んだが、講義で扱っている文学作品の話だと気付いた。
「ああ、宮沢賢治の……」
宮沢賢治の短編童話に「やまなし」という作品がある。詳しい説明は省くが、この物語において、蟹の子供たちの会話に登場する賢治の造語に「クラムボン」というものがある。正体が何なのかは不明だ。英語の「crab」という単語に似ていることから、蟹の母親か蟹の出す泡だとする説、アメンボやプランクトンの一種だとする説、そもそも解釈すること自体をタブーとする説など、学者たちが「クラムボン」の正体を議論することは多い。ぼくの最近行った講義でも、このことについて少し話したことがある。たぶん、それを言っているのだろう。
「君は、クラムボンなのかい」
ぼくはそう茶化してみた。ちょっと困らせてやろうと思ったのである。ぼくの質問に、この不思議な少女がどんな反応を返してくるか、見てみたかったというのもある。
「そう。川の中でかぷかぷ笑って、でもなんで笑っているのか誰も知らない。ただ、笑うだけの……クラムボンだよ」
「そ、そっか」
当然のように断言され、ぼくは驚いて黙ってしまう。こんな風に返されるとは思っていなかった。
 この子は少々風変りな感性を持っているようだ、と今更のように思った。
「じゃあね、せんせい。せんせいの講義、楽しみにしてるよ」
少女は跳ねるように歩きながら、研究室から出て行った。
「何なんだ、あの子は」
そのつぶやきには、もちろん答えなど返ってこなかった。
 ただ、ぼくは心の中に彼女の存在をとどめざるを得なかった。
 彼女が風変わりだったからというのももちろん理由の一つだが、もうひとつ、ぼくは見逃せないものを見てしまっていた。
 ぼくが見た「それ」が何なのかは――今は言わずにおこうと思う。