第二章
 その日、ぼくは黒猫を見た。
 雑踏の中を、浮遊するようにゆっくりと移動する猫。外見は普通の猫と変わりない。だが、猫は人ごみの中をひたすらまっすぐに歩いていくのに、誰も猫をよけようとしないし、猫の側も、人を避けるということをしない。その風景は、実に奇妙だった。まるで、幽霊か何かでもあるかのようだ。もしくは、あの猫はぼくだけが見ている幻の類なのだろうか。いや、そんなことがあるはずはない。
 思案していると、猫は道の中央で立ち止まった。周囲の人間たちはまったく反応しないで、何もないかのように通り過ぎていく。道の真ん中、非常に目立つ場所にいるにも関わらず、誰も猫を見ていない。
 やはりおかしいな、と考えていると、猫は振り返って、ぼくと目を合わせた。
 たまたま目が合った、というのではなく――じっと、ぼくだけを見据えていた。
 数秒間が経過し、猫は緩慢な動きで口を開いた。ぼくを見据えたまま。
 人間の言葉でもしゃべるのか、と一瞬身構えてしまった。もちろんそんなはずはなく、黒猫は「にゃぁ」と一声鳴いただけだ。さっとすばやく身を踊らせ、路地裏に飛び込んでいく猫を見ながら、なぜかぼくは「後を追わないといけない」と思った。「自分はそうしなくてはいけないのだ」という強迫観念にも似た何かが、ぼくを支配していた。たとえるなら、時計を持ったウサギを追うアリスの気分――と言えるだろうか。
 とにかく、ぼくは何かに操られるように路地裏へと駆けこんでいった。
 その先に何があるのかなんて、そのときはまったく考えていなかった。

 猫は路地の暗い部分へと入っていく。徐々に光は薄れ、そのかわりに闇が濃くなる。足元が見えないほどの暗闇の中へと進みながら、どうしてこんなことをしているのか自問する。この猫が何だって言うんだ。後をついていったって何にもならないのに。そんな考えとは裏腹に、足は勝手に前へ前へと歩を進めていった。
 数分が経過して……暗闇の中で、猫が不意に動きを止めた。
 まるで「止まれ」と号令をかけられたかのように、ぴたりと。
 ぼくも慌ててそれに倣う。
「にゃあ」
猫が一声、鳴いた。先ほどよりもやや大きめの鳴き声。
 落ち着いて周りを見渡してみると、猫の前方にはビルの入口と思しき扉が見える。暗いのでビルの外観はよく見えないが、ドアにかけられたプレートの文字はなんとか読むことができた。
「『秘密クラブ・猫デレ』」
思わず声に出して読んでしまった。あまりに奇妙というか、得体のしれない文句だ。だいたい、本当に存在を秘密にしたいなら、プレートに「秘密」とは絶対に書かないと思う。かなりの胡散臭さだ。ていうか「猫デレ」ってなんだ。意味不明である。
「あー、また来たみたい」
猫の声に応えるように、ドアの内側から声がした。甲高く幼い少女の声。
 どこかで聞いた声だと思った瞬間――ドアが開いて、中の人物と目が合った。服装はこの間とは違っていたが、その顔だけは忘れるはずがなかった。
「せんせいっ?」
「……七ツ谷、日苗乃?」
 この間の一件の後、個人的に名簿で調べた名前。口に出してから、しまったと思った。普通、大学の講師が一生徒の名前を覚えたりはしないものだ。案の定、それを聞いた少女は驚いたようにドアノブから手を放した。
「わたしの名前、覚えてくれてたの」
その手の人差し指を立て、自分の顔を指差しながら――彼女はチェシャ猫のように口の端を吊り上げた。
「わたしも、せんせいのこと覚えてるよ」
何と答えればいいのかわからなかったので、とりあえず「ありがとう」と言っておいた。
 それには特に返答せず、彼女は「あ、わたしのことはヒナノって呼んでいいよー」と呑気な提案をした。

「ちょっと、ヒナノ。何してらっしゃるの?」
ドアの内側からから女の声がした。日苗乃は振り返って、こう返事をした。
「せんせいが来たの。入れていいよね?」
「ちょっと、ぼくは……」
別に来たくて来たわけではない。おおっぴらに「秘密クラブ」を名乗るような怪しい場所にはあまり関わりたくなかった。面倒なことになりそうな気がする。
「はぁ? 先生……って、ヒナノの?」
「うん、せんせいだよ」
「何だか知らないけど、そんなとこに立ってないで入れば?」
「いや、だからぼくは」
ぼくが黙っている間に勝手に話が進んでいる。ややこしいことになる前に、早く丁重に断ってここを去ろう。そう思った。
 が、その前に日苗乃に服をつかまれてしまった。そのまま、部屋の中へ引きずり込まれる。細腕なのに、けっこう力が強い。ぼくが部屋に入りきった瞬間、ぱたんと音をたててドアが閉まった。……退路が絶たれた音だった。
 仕方ないので、ぼくは部屋の中へ歩み出した。部屋は狭かった。八畳くらいの空間に、簡素なテーブルが一つと椅子が四つ。それ以外はほとんど何もない空間だ。
 椅子に座っているのは、日苗乃よりも少し年下のように見える少女が二人。
 彼女たちの奇妙な出で立ちに、ぼくは目を見開いた。二人とも、ゴシックロリータというのか、ヨーロッパの貴族のような黒くてフリルのたくさんついた装束をまとっている。短めのスカートから覗く足は人形のように細くて白い。頭には黒のヘッドドレス。本人たちには悪いが、何かのコスプレかと思った。きっちりとマッシュルームカットにされた金髪も、コスプレ感を増大させる一因となっている。顔立ちは日本人のように見受けられるのだが、金髪も服装もしっかり似合っていた。
 二人とも服装が同じだけではなく、顔まで全く同じだった。背の高さも同じくらいで、おそらく双子か姉妹だろうと思われる。軽く透視してみたが、不審な点は特にない。
 ぼくがそんな分析をしている間に、相手もぼくを分析していたらしかった。
「……冴えない男ね」
ぼくから見て、向かって右側に座っている方の少女が吐き捨てるように言った。左側の少女は黙ったままだ。二人とも冷めた目でぼくを睨みつけている。なぜそんな態度をとられるのかはよくわからないが、初対面の人間への対応としては最悪の部類だと思われた。
「せんせい、黙ってちゃダメだよ。ほら、ご挨拶!」
冷ややかな空気が流れる中、日苗乃だけが笑顔だった。そういえば初めて会ったときも彼女はひたすらマイペースで、いまいち場の空気が分かっていない調子だったっけ。空気が読めないというのも一つの才能かもしれない。
「えーと、大学の講師やってます。峰越純です」
促されるままに自己紹介をした。
「わたしはリラ。こっちはコトミ」
ぼくが軽くお辞儀をするのを見ながら、右側の少女――リラがけだるそうに言った。左側の少女、コトミはやはり何も言わない。
「とりあえずひとつ、確認したいんだけど」
リラは眉間にしわを寄せた不機嫌な顔のまま、こう問いかけた。
「……あなた、何なの」
ひどく抽象的な質問だった。
「あの、それってどういう意味」
「言葉通りの意味。質問の意図がわからないようだから、こう言い換えましょうか」
それはまるで、凶器を振りかざす殺人鬼のように――威圧的な言葉だった。
「ここに、あなたは何をしに来たの。自分の役割と、存在の意味を述べなさい」
ずいぶんと大げさな言い方だ。何だそれは、と笑い飛ばしてしまいたくなる。しかしリラとコトミの刺すような視線には、殺気がこもっている。日苗乃の方をちらりと見る。できたら日苗乃に助けてほしかったのだが、彼女も双子と同じく答えを待っているように見えた。彼女たちの期待する答えを、ぼくは今ここで言わなければならないのだ。
 だが……彼女たちの求めている答えなんて知る由もない。正直に話をするしかない、とぼくは判断した。
「ぼくは、大学の非常勤講師だ。……ここにはたまたまたどり着いただけで、特に何か用事があるわけではない」
場が静まりかえった。
「……うそつき」
小さな声がそう言った。初めて聞く声――左側に座った少女、コトミだった。
「ぼ、ぼくは嘘なんて」
リラは慌てて弁解を始めるぼくを無視して、
「ああ、あなたはどうやら例外因子らしいわ」
とうんざりした調子で言った。
「は?」
「ねえヒナノ。このセンセイとやらは何者なの。あなたはご存じ?」
あくまでぼくの存在は無視して、リラは日苗乃と会話を始めた。
「大学のせんせい。日苗乃のせんせい。日苗乃に気づいてくれたせんせいだよ」
「もういいわ」
リラの言葉を、日苗乃は無視した。
「あとねー、きれいなの。せんせいは、くっきりしてて、きれいなのよ」
この間ぼくに彼女が言った言葉だった。「くっきりしている」というのは初耳だったが、彼女の言葉に具体的な意味を求めるのはもうとっくに諦めている。ぼくは日苗乃には何も言わなかった。
「……もういいわ」
リラは再びそう言って、日苗乃との会話を終える。
「何なんだ、ここは。君たちは……いったい」
ようやくそう問うことができた。
「ここは、限られた人間しか入ることのできない――」
続けて何かを言いかけたリラの言葉を、隣に座るコトミが遮った。
「『秘密クラブ・猫デレ』」
コトミと目が合った。リラとすべてがそっくりな少女だと思っていたが、目の色が違うということに気がつく。リラの目の色は黒だが、コトミの瞳は宵闇のような紫色だった。
 その紫の瞳が、ぼくを映す。ガラス玉でも見ているかのように、何の感情も見いだせない目だ。
 彼女はこう続けた。
「……ここは、猫愛好会。猫好きが集まる、秘密の会合」
それを聞いたぼくたち三人は全員、目を見開いて驚いていた。
 なぜ君たち二人まで驚くんだ、と言いたかったが堪えた。
「あー、そうよね。そうそう。猫好きなのよ、わたしたち」
「ヒナノは猫大好きだよー」
日苗乃はいつのまにか先ほどの黒猫を抱え上げていた。にゃーん、と嬉しそうに猫が鳴く。この場において、日苗乃の正直さだけが救いだった。
「猫好きなのはいいけど、なんでそれを秘密にするんだ」
「……訳ありだから」
コトミの答えには迷いがなかったが、それゆえにかなり……胡散臭い。
「訳って?」
「女の子にワケを聞くなんて無粋よ。黙りなさい」
リラが加勢してきた。コトミか日苗乃と一対一で話すことができたら、多少はここが何の会合なのかわかりそうなものだが……この三人と一緒、というのは分が悪い。
「……はい、黙ります」
とりあえず、この金髪美少女二人には勝てない。他のことは何一つわからないが、それだけははっきりとわかった。

「リラは猫アレルギーなの」
後日、日苗乃に大学の食堂で遭遇したとき、彼女はまずこう言った。
 結局あの日、ぼくは何も聞き出せないまま、『クラブ・猫デレ』から追い出されたのだった。日苗乃だけは「せんせい、もう帰っちゃうの?」と引き止めてくれたのだが、リラとコトミの無言の重圧に耐えかねたので、早めに退散した。
 「一緒に食べてもいい?」と聞いてくる彼女に頷きを返しながら、ぼくは尋ねた。
「猫アレルギー? ……あの黒猫と一緒でも平気そうだったけど」
「触るのがダメなんだって。一緒にいるのは平気みたい」
日苗乃はぼくの向かいに座った。トレーには、今日のランチが載っている。
「そうか……」
確かにおおっぴらに猫好きを公言できない理由として、猫アレルギーというのはなかなか説得力がある。が、限りなく嘘っぽい。というか、そんなまともな理由が似合わないほどにあの二人は胡散臭い。
 おそらくこれもリラの差し金だろうと思われる。ぼくに嘘を言うよう、日苗乃に頼んだのだろう。このことで日苗乃に文句を言うのは、筋違いというものだろう。話題を変えることにした。
「あの二人は双子? それとも姉妹?」
「しゃむそーせーじ?……ってコトミが言ってたよ。とりあえず、双子かなあ」
……あの二人、別々に椅子に座ってたじゃないか。明らかに嘘だった。
 『シャム双生児』の意味を知らない日苗乃もどうかと思うが、息を吐くように嘘をつく姉妹がすべての元凶だとぼくは悟った。双子だということだけ、頭にとどめておこう。これ以上何か聞くのも悪いし、おそらく何を聞かれても適当にはぐらかすように、あの二人から言われているに違いない。不毛すぎるので、クラブに関する話はこれで終わり。
「今日の講義、どうだったかな」
「おもしろかったよ!」
日苗乃は笑顔になった。
「せんせいの話、日苗乃は大好きだよ。たとえば――」
彼女は本当によく講義を聞いてくれていた。教室にいる生徒の大半が寝ているか喋っているか内職をしている、非常につまらないことで有名なぼくの講義。でも、この子はちゃんと聞いて、
内容を考えて、ノートを取ってくれている。それがぼくにはとても嬉しかった。
「あ、せんせい、知ってるかな、あの噂」
唐突に彼女が切り出した。ぼくは頷きながら、
「シュレディンガーの幽霊、か?」
この街には、いくつかの怪談が存在する。深夜、人を無差別に殺して回る殺人鬼の話。金曜日に街の路地で黒猫に会うと、異次元に引きずり込まれてしまうという話。正体不明の怪しい会合の話。などなど。すべてがよくある都市伝説で、事実に根ざしているわけではない。特に珍しいものでもない。
そんな数多の都市伝説の中で、最もこの街で有名なのが「シュレディンガーの幽霊」だ。
 「それ」は、長い髪を持つ男の姿をしていると言われている。もちろん、別の説もある。幼い少女の姿だという者もいれば、老人の姿だという者もいる。
 たったひとつ確実なことがある。「それ」は、幽霊だ。
 存在が希薄で、透きとおった体を持つ。向こう側が透けて見えるため、誰が見てもすぐに「それ」は「それ」だと知覚されるのだという。
 幽霊の通称は、シュレディンガー。その名前は、哲学や量子力学の世界で有名なパラドックス「シュレディンガーの猫」から来ているのかもしれないが、なぜそう呼ばれているのかは不明だ。
 「それ」に遭遇したものは、何か大きな転機を迎えると言われている。
 転機とは何なのか。「それ」は吉兆なのか不吉なのか。「それ」は誰の幽霊なのか。遭遇した後、どうなるのか……すべては不明である。
 どこにでもある、よくわからない怪談話だ。
 最近はこの学校で、この「幽霊」の亜種であろう、こんな話が蔓延し始めている。
「シュレディンガーはこの世を統べる神であり、逆らった人間はこの世から消されてしまう」――。
 どこから生まれた話なのかはわからないが、正体のわからない「幽霊」についての噂にしては、物騒なものだ。もちろん、誰かが本当に消されたわけではない。この学校はどこまでも平和で、平穏な空間でしかない。
 ただ、その平和の中に、シュレディンガーという謎の存在への畏怖のようなものが垣間見えるようになった日から、ちょっとだけこの学校は変わってしまったような気がする
「シュレディンガー。せんせいは、信じますか」
「信じないな。よくある噂話だし。そういうのにはあんまり興味がない」
「そう」
日苗乃は特に何もコメントせず、
「あ、グリーンピース残してる。せんせいなのに、いけないんだー」
と話題を転換した。ただの世間話だったのだろう。
 その後も講義の内容について二人で延々と話していたら、チャイムが鳴った。
「やばい、授業だ」
ぼくは慌てて立ち上がった。
「せんせい、急がなきゃだめだよー」
のんびりとした口調で言いながら、彼女もトレーを持って、一緒に早足で歩く。
 少しずれた子だけれど、一緒にいる時間はとても楽しい。
 その気持ちが、ぼくにとっての七ツ谷日苗乃という少女のセカンド・インプレッションだった。