第三章
 その年の夏の日の朝――この小さな街を震撼させたのは、恐るべき殺人のニュースだった。
 人気のない路地裏で、心臓を鋭い刃物で一突きにされた男性の死体が発見された、というものである。それだけなら、ただの通り魔の犯行だと断じられて、日常に埋もれていくくらいの話題だったが……それから数日後。これまではかん口令が敷かれていたため明らかにされていなかったが、実は他にも同じ手口で殺害された被害者が過去に何人かいるという事実も報道されはじめた。被害者は全員がこの町の住人で、かつ一人暮らしの男性だと言う。この大学では、例の「シュレディンガーの幽霊」の仕業だという噂が流れ、学内の空気も不穏なものになりつつあった。
 しかしぼく自身はといえば、人気のない道を避けるようになったくらいで、つまらない噂にも殺人鬼にも、別段関心をもつことはなかった。それらは特にぼくの生活を脅かしたりはしないと思っていたし、そもそも現実味が感じられなかったのだ。ニュースの中の出来事なんて、自分とリンクしていなければ虚構の中のものと同じだ。いるかいないかわからない幽霊のように――曖昧な存在。
 そんなことよりも、虚構の中の存在ではないものがぼくに働きかけつつあった。ぼくにとってはそちらの方が問題だった。
 言うまでもなく――七ツ谷日苗乃。そして例の「秘密クラブ」である。

「せーんせっ!」
澄んだ声を弾ませながら、彼女はぼくの研究室に飛び込んできた。彼女の来訪は、これで連続三日目になる。
 訪ねてきてくれるのはうれしいのだが、ひとつ困っている点があった。
「ねえ、またクラブに来てくれないの?」
彼女がぼくの研究室に来るたび、最初に言う言葉がこれだ。日苗乃はぼくにあの会合の仲間になってほしがっているようだが、双子から拒絶を食らうことは目に見えている。
「……また、いずれ」
ぼくの返す曖昧な返答を聞くたびに、日苗乃の表情が曇る。この子は、本当にぼくに来てほしいのだ。心のどこかがじくじくと痛む。日苗乃のためにあそこへ行くべきなのではないかと何度も自問したが、双子と顔を合わせたくない、面倒なことに関わりたくないという気持ちも強くて、結局ぼくは自分からあの会合のあるビルへと向かうことはなかった。

 その日、ぼくはこう思っていた。
 もし今日、あの子が研究室に来たら、『クラブ』には行かないとはっきり伝えよう、と。いつまでもぼくが明瞭な意思表示をしないから、日苗乃も期待してしまうのだ。年上のぼくが、しっかりしなくては。
 コンコン、とノックの音がして、扉が開いた。
「ヒナノ……」
と言いかけたが、現れた人物の顔を見て絶句した。さらさらと流れる金色の髪。黒いゴスロリ服。あの夜出会った双子の少女の片割れが――そこにいた。
「冴えない男の部屋は、やっぱり冴えないのね」
「リラ……か?」
リラなのかコトミなのか一瞬迷ったが、この饒舌さと毒舌はリラの方だろう。
「わたしの名前、覚えてるのね。……別にうれしくないけど」
本気で嬉しくなさそうだ。……口調はツンデレだが、ツンデレのデレ分のかけらも見えない少女だった。ただのツンだ。
「コトミは、一緒じゃないのか」
「双子だからっていつも一緒にいるわけないでしょう。つまらない固定観念に凝り固まった脳をお持ちね」
正論だった。ぐうの音も出ない。
「そんなことを話している暇はないの。今日は、お願いに参りました」
「……お願い?」
この少女には最も縁のなさそうな単語だった。思わず聞き返してしまう。
「……『クラブ・猫デレ』に――入ってほしいの」
リラの口調は真剣そのもので、だからこそ不可解だった。
「どうして。ぼくはそこまで猫好きじゃないぜ」
あえてそうはぐらかしてみた。彼女たちは「猫好きの会合」なんて白々しいことを言っているが、その裏に何か別のことを隠しているのはわかっている。……その秘密に簡単に踏み込むのは嫌だった。夜にあんなビルに集っている彼女たちの秘密。ぼくは、他人の秘密を覗き見て喜ぶような無神経な男ではない。
「ヒナノが。あなたがいないと、寂しそうなの。あなたといるときのヒナノ、とても幸せそうだったから。……それだけ」
心底いとおしそうな調子だった。頬がほのかに染まっている。
「君は、ヒナノをとても大切に思ってくれているんだね」
「当たり前です。ヒナノは大切で特別な存在で――」
彼女はそこまで言ってから、はっとしたように口を押さえた。珍しくうろたえた様子で、
「……今の言葉は、聞かなかったことに。……では、クラブの件、よろしくお願いします」
早口で言って、彼女はさっさと出て行ってしまった。
「クラブに入れ、か」
あそこに行くということは、あの子たちの秘密に触れるということだ。
「本当に、ただの平和な『猫愛好会』だったらいいんだけどな」
つぶやきながら、ぼくのいるときのヒナノのことを考えた。いつも無邪気で明るくて、でもどこかがおかしい少女。リラは、ぼくといるときの日苗乃は幸せそうだという。つまり、リラたちと過ごすときのヒ日苗乃は「幸せそう」ではないのだ。
 それは、普段の日苗乃が不幸の種を背負って生きているということではないのか。
「飛躍しすぎか」
煙草に火をつけ、煙をゆっくり吐く。研究室に白い煙が満ちてゆく。
 嫌な予感がした。あのクラブは、どうにも胡散臭すぎる。わからない部分が多すぎて、妙な予想ばかり膨らむ。
 でも、行くしかないという気がした。日苗乃を不幸にする何かがもし、あそこにあるのなら――ぼくは、その要因を叩き壊してやりたい。そう思うくらいには、ぼくにとっても七ツ谷日苗乃は特別で大切な存在なのだ。あの子の笑顔を守ってやらなければ、という使命感がぼくの中にはある。
 ……こうして、ぼくは「行かない」という決意を「行ってやろう」という半ばやけっぱちの気持ちへと反転させた。もしもこの日、リラが研究室を訪れなければ、きっとぼくは「行かない」と日苗乃に伝えていた。そして、そこから先の運命も変わっていったはずだ。
でも、ぼくは「行く」方を選んだ。
 どちらが正しかったのかは、今でもわからない。
 ただ、この瞬間、日常は非日常へと逆転してしまった。それだけは確かだと思う。

 ぼくは迷っていた。気持ちの上で迷っていたとかそういうものではなく、文字通り道に迷っているのだ。例のクラブに行く、と決めたのはいいが、家を出ていくら歩いても「クラブ・猫デレ」は見つからなかった。一度しか行ったことがないとはいえ、街中の路地裏を歩き回ってもそれらしきものが見つからない、この状況は明らかにおかしい。
「どうしたもんかな……」
どうやら、あのクラブは路地裏の中でもかなり奥まった、わかりにくい場所にあるらしい。そう結論付けて、ぼくは薄暗い路地の途中でUターンして、いったん帰宅することにした。
 そのとき――ゆらり、と視界の中で何かが揺れた。
 光の入らない暗く狭い道の中央に、その何かは居た。それはたぶん、ずっとそこにいたのだろう。道の真ん中にいきなり出現したかのように見えたが、そんなのは錯覚に決まっている。闇にまぎれて不可視になっていただけで、最初からそれはそこにいたのだ。
 それは――黒猫だった。その流れるような闇色のフォルムには見覚えがある。あの日、ぼくをクラブへと導いた猫だ。
「にゃぁ」
その鳴き声が合図だった。あのときと同じように、操られるように猫の後をついていく。これでまたあそこに行けるだろう、と楽観的に考えていた。ぼくはどこまでも甘かった。もっと警戒すべきだったのだ。「黒猫」は、いつだって不幸を運ぶものなのに。
 その先にあんな光景があるなんて、愚かなぼくはまったく考えていなかった。

 黒猫が角を曲がって、ぴたりと静止する。それが、非日常が始まる合図だった。
 鉄のようななまぐさい匂い。あおむけに倒れたままぐったりと動かない男。その見開かれた双眸も、ぴくりともしない。胸にはぱっくりと開いた傷。何か鋭い刃物で切られたもののようだ。
 そして、その死体の前に立っている人物は……「鋭い刃物」を持っていた。獣の尾のように奇妙に湾曲した、大きなナイフ。その刃の半分は血で濡れている。
 しかしぼくの目に焼きついたのは、ナイフではなく、それを手にした人間の顔だった。それは……ぼくのよく知る少女の、笑顔だった。
「ひな、の」
ぼくのつぶやいた名前に反応し、少女がゆっくりと振り返る。開いた瞳孔が、狂気を物語っている。見開きすぎるくらいに見開いた目で、彼女はぼくを見た。
「せんせい」
いつもと変わらない声だった。変わらないからこそ、その声は心に突き刺さった。どうして、人を刺し殺してなお、彼女は無垢な声でぼくを呼ぶのだろう。彼女はもともと普通ではなかったけれど、今ここで人を殺した。それは、越えてはならない一線ではないのか。
 まるで、そこにある男の死体なんて見えないかのように、明るく。
 ――七ツ谷日苗乃は、ぼくに笑いかけた。
 その表情はとても異次元的で、寒気がする。
 闇の中、ぬめりとした刃が笑うように光るのが見えた。