第四章
「あなたは、罪を代替する存在なの」
その人が何を言っているのか、よくわからなかった。
 ただ、もう「わたし」の意志をまともに聞いてくれる人はこの世にはいない、ということだけははっきりと理解できた。どんなに長い時を経ても、あの人たちは戻ってこない。部屋の中に倒れた三体の屍は、わたしを日常から追い出したのだ。
 逆転した世界。数多の幸せは数多の不幸に。善なるものは悪なるものに。すべては反転し逆転し、無残に変化していく。
 そして踏み入れた部屋。そこから先は、非日常の世界だ。身を清め、和服に身を包んだ少女がわたしを迎えた。
「だから、人を殺さないといけないのよ、日苗乃」
罪を引き受けて、人を殺すのがあなたの役目だから――わたしの世話役を押しつけられた金髪の少女は、泣きながらそう言った。どうして彼女が泣くのだろう。彼女は何も悪くないのに。
 彼女は、昔からの友達の一人だった。名前はリラ。コトミという双子の姉がいるらしいが、彼女に会ったことはなかった。「ここ」に残っているわたしの友達は、リラだけだった。
「ごめんなさい、日苗乃。わたしにはあなたを救えない」
別にいいの、とわたしは言った。リラに罪はない。罪を負っているのはわたしだけだ。それは、わたしが犯した罪ではないけれど、確かにわたしの背負うべき罪悪なのだ。
 すべての人の罪を代替する存在――それがわたし。七ツ谷日苗乃。
 わたしの仕事は人を殺すこと。ずっと昔から、そう決められていた。


「帰りなさい。あなたはここにいるべきではないわ」
まともに日苗乃の話を聞くことはできなかった。日苗乃の背後から双子が現れ、ぼくを猛然と追い返したからだ。
「わかったでしょう。日苗乃はあなたと同じ世界になんて、最初からいない。帰りなさい。そして、今日ここで見たことは、全部忘れることね――センセイ」
リラの口調は冷たかった。コトミの方に視線をやると、
「あなたのこと、だいっきらい」
と一言、断言された。彼女に嫌われるような何かをしてしまった覚えはないのだが、今は引き返すしかなさそうだった。口答えをしたら、日苗乃のあの大ぶりのナイフに貫かれてしまうかもしれないと、正直なところぼくは怯えていたのだ。日苗乃のことを信じてやりたいとも思ったけれど、この状況では彼女のすべてを信じてやることはできない。日苗乃が男を刺し殺し、双子がそれを隠ぺいしようとしているのは事実なのだから。
 背を向けて歩き出そうとしたぼくに、日苗乃はこう声をかけた。
「せんせいは、人を殺すヒナノはきらい?」
あっけらかんとした問い。何と答えていいかわからなかった。
 日苗乃は、その沈黙を一つの答えとして受け取ったらしかった。
「そっか、じゃあ、もう会えないね」
くしゃくしゃに顔をゆがめて、泣きそうな顔で。ナイフを握りしめたままの日苗乃は最後に、こう言った。
「せんせい、さよなら」

 日苗乃の別れの言葉が、脳裏に焼き付いて消えない。あの事件はすぐにマスコミに報道されたが、犯人は捕まっていないとのことだった。日苗乃は大学に来なくなった。否、ぼくの講義に出ていないだけで、他の授業は受けているのかもしれないが、ぼくには彼女の出席状況を調べる方法なんてないのだ。
 ぼくの研究室は、またぼくだけの閉鎖空間と化した。もう、日苗乃が質問をしに来ることも、彼女と学食へ行くこともない。ぼくの日常は、彼女と出会う前に戻っていた。
 あの夜、本当に日苗乃は人を殺したのだろうか。殺したのだとして、その前に殺された何人かも、彼女が殺していたのだろうか。テレビ番組では「連続殺人」と称されていたが――その場合、ぼくとここで連日話した日苗乃は、人を殺したばかりだったのだろうか。前の晩に人を殺した少女と、ぼくは会話していたのか。そう思うと、急に背筋が寒くなった。彼女は少々変わった性格だが、あくまで普通の生徒だと思っていた。ただの学生を、人殺しだなんて誰も思わない。そうだろう?
 しかし、その問いに答えは返ってこない。日苗乃はただの学生じゃないということを、早い段階で知ってしまっていたからだ。
包帯を巻いた彼女と出逢ったあの日。ぼくは、透視てしまっていた。
講義を受ける彼女の腰に据えられた、あのナイフを。少女が服の下に忍ばせていた凶器の存在を、ぼくは知っていた。。
しかしそのときは、少々大きめだが護身用のものだろう、と結論付けて終わらせてしまったのだった。まさか、そのナイフが人を殺すために振るわれているなんて、予想してはいなかった。これは本当である。
彼女は、意味のわからないことを平然と言う、不思議な少女だった。……でも、ぼくにはそんなことは些末なことでしかない。あの子と笑い合っていられるなら、そんなことはどうだってよかった。笑う彼女がいつでも服の下にナイフを持っていたとしても、ぼくにとってその事実は何の意味も持っていなかった。
 無性に泣きだしたかった。平和な日常に還る。日苗乃の殺人はなかったことにし、彼女の「不幸」の源も放ったままで、ぼくは自分だけ元の場所に帰ろうとしている。
 本当にそれでいいのか。日苗乃は、あんなに苦しそうにぼくに別れを告げた。彼女の瞳は確かに、助けを求めていた。クラブに執拗に誘ったのも、もしかしたら彼女なりのSOSだったのかもしれない。
「でも、ぼくにできることなんて――ない」
口に出してみて、それは逃げだと気づく。ぼくは見たくない現実から逃避しようとしているのだ。元の平和な生活に回帰する、それがぼくにとって一番安全な選択だ。この状況をひっかきまわしても、軋轢と身の危険しか生まれないとわかっているから、ぼくは迷わずそれを選んだ。
 でも、ぼくが選んだ世界に日苗乃はいない。
 たった一人の理解者だった、日苗乃はもう――この日常世界には存在しない。
 心に澱がたまって、少しずつ淀んでいくような気がした。
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
『クラムボンは死んでしまつたよ………。』
澄んだ川の中で会話する蟹の兄と弟。川の底に形成される、完成された世界。しかしそこには死があり、何者かに殺されるかもしれないという恐怖がある。クラムボンの死は兄弟の心に影を落とす。
 クラムボンを自称する少女はもう死んだ。いや、最初から彼女はクラムボンなんかじゃない。彼女は無力に殺されるクラムボンではなく――「殺す側」だったのだから。

 「クラブ・猫デレ」と書かれたプレートのついたドアのある、廃ビルの一室。
「わたしは、どうしたらいいの……日苗乃」
ぽつりと金髪の少女がつぶやいた。簡素な椅子に腰かけた彼女の他には、誰もいない。
 リラは迷っていた。彼女がずっと考えているのはあの男――峰越のこと。
 あの男をクラブに呼べば、いずれ自分たちの秘密は漏えいしていただろう。クラブの本当の目的も、日苗乃が人殺しであることも、隠し通せはしなかったと思う。それをわかった上で、リラは彼に、クラブへ入ってくれと頼んだ。日苗乃の閉ざされた世界を、開いてくれるかもしれないと期待したからだ。
 でも、日苗乃が儀式――殺人を行う場に、唐突にやって来たあの男の表情を見て、リラは理解してしまった。彼に「わかってもらう」ことは、自分が予想していたよりもずっとずっと困難だ、ということを。
 見開かれた目。怯えたウサギのような双眸。がくがくと膝を震わせ、あのときの彼は、日苗乃に本気で恐怖していた。
 順番を間違えたのかもしれない。事情を話してからなら、彼が日苗乃の殺人を肯定してくれた可能性もあるのではないか。いきなり殺人現場を見せられて、笑って許せる人間なんているはずがない。……そんな常識的なこともわからないくらいに、自分たちは非現実的な日常に慣れ切っていたのだな、とリラは自省する。
 リラは、峰越との和解を望んでいた。彼が日苗乃を理解して、幸せにしてくれればそれでいいと思っていた。日苗乃の世話役としてのリラは、ずっと日苗乃の幸せを望んでいただけだ。他には何も望まない。何年も何年も、日苗乃のことだけ考えて生きてきた。
 他のものなんて何もいらないのに、どうしてこのたった一つの願いは叶わないのだろう。
「ねえ、日苗乃――あなたは、どうしたら心から笑ってくれるのかしら」
問いかけは、窓から徐々に侵入してくる闇の中に溶けて消えていった。

 酒を、飲んだ。コンビニで買えるだけ買いこんできたビールの残骸が、ぼくの仕事机に山積みになっている。意識はどろどろに淀んでいるし、吐き気がひっきりなしに襲ってくる。もともと酒に強くないので、おそらくしばらくは頭痛に悩まされるだろう。でも、そうせずにはいられなかった。やけ酒ってやつだ。
 扉がノックされる音。その音は空っぽの脳に入り込んで、ガンガンと響いた。
「はい」
よろよろしながら研究室のドアを開ける。
「……峰越先生。話を、聞いてもらえるかしら」
有無を言わさぬ口調で、脅迫するかのように、リラが言った。リラの隣には、まったく同じ顔をした少女がいる。彼女、コトミは何も言わなかった。
「お願い。わたしの話を聞いて」
神に祈るときのような、切実な声だった。