第七章 『日苗乃は、将来の夢とかあるのか。資格コースの授業とか、取ってるか』 少女は目をぱちぱちと瞬いて驚きを表現した。 『ゆめ?』 『ないのか』 うつむいて、何かを考えるように手を口に当てる。しばらくして、 『ゆめ、忘れちゃった。ずっとなりたかったもの、あったはずなんだけど……』 と言って、彼女はにっこり笑った。……少し、寂しげだった。無理をしているように見えた。 夢を忘れるなんて、ありえるんだろうか。そのときのぼくは、少しだけ疑問に思った。でも、いつも奇妙な言動ばかりを繰り返す彼女だ。『夢を忘れた』というその言葉も、他の奇矯な言動に埋もれていった。 ぼくは、その言葉を殊更気にすることはなかった。 ただ、そのときのぼくは、かつて自分が抱いた夢を思い返していた。 幼い頃、ぼくは医者になりたかった。自分の持っている超能力と、この医者という夢は無関係ではありえなかったと思う。人体を透かして見ることができる自分なら、優れた医者になれるだろう。そんな汚い野心がまったくなかったといえば嘘になる。もちろん、それは理由の一つに過ぎなかったし、そのときの自分はそれを汚いとは思っていなかった。だから、平然と周りの人間にその夢を告げてしまった。ぼくの夢を聞いた母の、失望したような双眸を忘れることはないだろう。 その瞬間、夢なんて捨ててしまおうと思った。親を失望させる夢なんか、持つのはやめよう。人を失望させるものなんて、いい夢ではありえないのだから。 幼いぼくは、新しく将来の夢をでっちあげることを決める。 超能力を使って出世することなんてありえないような、彼女をほっとさせるような、新しい夢を。 そして――ぼくは、教師になった。 ――誰かの泣く声が聞こえる。どこかで聞いた声のような気がする。 そう、これは……ぼくが初めて守ろうと思った、少女の声だ。 意識は水泡のように浮かび上がる。浮上しなければ。水面の外で、少女が泣いているから。 目を開ける。顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくる少女の顔。その隣で、悄然とぼくを見ている金髪の双子。目には隈ができており、長い間寝ていないのであろうと思われた。ぼくは床の上に直に寝かされている。この何もない部屋は――『クラブ・猫デレ』、か。 「あれ……ぼく、なんで生きてるんだ」 「こっちが訊きたいわ。なんであなた、生きてるの。あなたは、……何なの」 リラはそう言ったが、つんけんした口調とは裏腹に、ほっとしているようだった。心配をかけてしまったらしい。 「せんせい、せんせいい!」 泣きながら、日苗乃がぼくに抱きついてきた。 「せんせい、痛くない? 生きてるの? ねえ、大丈夫なの?」 「ヒナノ」 痛くない、生きてる、大丈夫。 短く答えつつ、彼女の頭を撫でてやる。そのつややかな髪にこうして触れるのは、初めてのような気がした。 日苗乃の様子が落ち着くまで待って、ぼくは改めてリラに尋ねた。 「あのあと、どうなったんだ。あの変な男は?」 「……びっくりして、錯乱した様子でどこかへ行ってしまいましたわ」 「びっくり、した?」 何に――と尋ねようとして、思いとどまる。 「あれ、なんで、ぼく……無傷なんだ」 剣で胸を刺されたはずだった。背中まで貫通するくらいの勢いだった。なのに、まったく痛くない。指で胸部を触ってみるが、どこにも傷はない。男が「びっくり」したのは――これか。 「意味が、わからない」 ぼくがそうつぶやくと、日苗乃が人さし指で思い切りぼくの頬を突いた。当然、痛い。 「いっ……」 「せんせいが生きてる。死ななかった。それだけで、ヒナノは嬉しいよ」 「まあ、今回ばかりはヒナノに賛成しますわ」 リラも仕方なさそうに同意した。 「あの男は、きっとまたヒナノを襲ってきます。峰越も、今度は死ぬかもしれない。対策を練っておくべきでしょう。ねえ、ヒナノ――あの男は、何なんですの」 日苗乃は「うーん」と首をひねった。 「よくわかんない。なんか、あんまり敵っぽくなかった」 あれだけ大立ち回りを演じておいて、敵っぽくない、だと? 「おまえ、殺されるところだったんだろ?」 「うん、そう。でも、なんか……あの人は殺しちゃいけない気がして、手加減しちゃった。わたしの『九番目の尾』には悪いことしちゃったかも」 「『九番目の尾』っていうのはあのナイフのことか……っていうか、手加減っ!?」 押されているように見えたのは錯覚だったらしい。 ネコガミの巫女の名をもつ殺し屋、七ツ谷日苗乃……彼女に、守ってやる、なんて余計な御世話だったようだ。今更のように後悔した。というか、偉そうに宣言しておいて、一分もしないうちに刺されて倒れたぼくって、実は相当かっこわるい男なんじゃ…… ぼくが赤くなったり青くなったりしていると、日苗乃がフォローを入れてきた。 「あ、でも、危なかったのはほんと。だから、守るってせんせいが言ったときは助かったし、うれしかった。ありがと、かぷかぷ」 「かぷかぷ笑い」を聞くのも久々だった。そもそも、あの事件以来会っていなかったんだっけ。会ったら気まずくなるだろうな、と気をもんでいたのだが、どうやら必要のない心配だったらしい。日苗乃は日苗乃だ。 「なぁ、一言だけ聞かせてくれ……コトミ」 すべてを見通す嘘つき村の少女は、黙ってぼくを見た。 「あの男は、何だ」 桜色の唇が、言葉を紡いだ。 「ただの、人間」 ぼくらは『クラブ・猫デレ』で夜を明かした。どこから持って来たのやら、女子三人はキャッキャと騒ぎながら布団を敷きはじめる始末。さすがにパジャマまでは持っていないらしく、そのままの服で寝ていた。 ……あれ、そういえばぼく、さっき床に直接寝かされてなかったか。ぼくに使わせる布団はないってことか。男なんてみんな汚い、とか思われていたりするのか……どっちにしろ、この美少女三人組、意外と鬼だった。さっきの感動の目覚めは何だったんだ。 「ねえ、せんせい……起きてる?」 「ん」 リラとコトミは隣で寝息を立てているので、起こさないように小声で返事をした。 「きっと、今度あの男に会ったら……殺されちゃうと思う」 「…………っ!」 嘘だろ、と言いたかった。日苗乃の声はとても真剣で、嘘ではないとわかっていたけれど。 「手加減したのはほんとう。でも、最後の方は、攻撃を受け止めるのでせいいっぱいだったの。次に会ったら、負けちゃう気がする」 日苗乃は、あはは、と軽快に笑ってから、 「でも、ヒナノは、せんせいを守る」 と言った。 「わたしが死んでも、せんせいだけは、元の生活に戻してあげる」 「そんなの……」 そんなのは嫌だ。守ると言ったのはぼくじゃないか。 暗闇の中で、日苗乃の顔は見えない。どんな顔をして、今彼女はここにいるのだろう。 どんな顔をして――死を待っているのだろう。 「せんせいが刺されたとき、もうダメだって思った。せんせいのいない世界なんて、真っ暗でつまらないの。自分の存在がどんどん薄まっていく気がするの。だから、わたしだけ生き残るのはいや」 「そんなの、ぼくだって一緒だ」 考えるより先に、声が出ていた。 「ぼくもヒナノのいない世界は嫌だよ。研究室に来てくれるまじめな教え子は、君だけなんだから」 日苗乃は驚いて絶句したらしかった。少し、沈黙が流れる。 「二人で生き残る、っていう選択肢はないの、かな」 小さな、消え入りそうな声で。ぼくは、そう言った。 「あんな変な男はやっつけて、もしくは、地の果てまででも二人で逃げ切ってさ」 自分で言っておきながら、無茶な考えだと思った。地の果て、なんて場所はありはしない。そもそも、この街を出て、どうやって生きていくって言うんだろう。しかし、日苗乃はこう応じた。 「いいね、わたしも、自由になりたい」 自由に――それを聞いて、そういえばこの少女は、あの男に殺されるとか殺されないとかそういう以前に、逃亡中の殺人犯なのだ、ということを思い出す。教団に押し付けられた人殺しを、ひたすら行いつづける巫女。あの男がいなくなっても、この子が人を殺さなければならない状況は変わらない。教団がなくならない限り。 「ヒナノは、巫女をやめたいって思わないのか」 少女の答えは簡潔だった。 「思わないよ。だって、ヒナノはネコガミ様のことが大好きだから」 「そうか」 リラもコトミも、あれだけつらそうにしていたのに、『ネコガミ』への悪口だけは絶対に言わなかった。無理をしているのではなく、彼女たちは本当に自分たちの神様が好きなのだ。どんな理不尽な運命に押し流されても、神を信じることだけはやめない。それは三人の理性をこちら側に引き止めている、最後の鎖なのかもしれない。 いっそ神に泣きごとを言えるような、泣いて命乞いをするような――そんな人間だったなら、もっと問題は簡単だっただろうに。そう思いながら、ぼくは眠りへと落ちて行った。 翌日、束の間の平穏は簡単に打ち破られた。激しい破壊音とともに。 ――瞬く間に、入口のドアが真っ二つにされていた。ぼくらは身を寄せ合って、狭い部屋の端へと追いやられる。 二つに割られた古い扉。かけられていたプレートも、綺麗に真っ二つ。その扉を踏みつけながら登場したのは、あの男だった。例の長剣を構え、堂々と立っている。 「……っ」 何も言わずに、日苗乃がナイフを構えた。ぼくは彼女を止めない。ぼくが暴走しても、犠牲が増えるだけだ。だから。 「ヒナノ……気をつけろ」 それだけ、言った。あの男は人間じゃない。ぼくも彼女も、昨日のコトミの言葉を聞いてしまったから――知っているのだ。 『ただの、人間』。一言、死刑宣告のように告げられた嘘。リラが、自分はコトミを利用しない、と断言した理由がわかった気がする。受け入れたくない真実は、コトミに口にされた瞬間から、それを聞いた人間の精神を重く蝕むからだ。 『ただの人間でない』男は、わざとらしいため息をついた。 「昨日のことは水に流すから、これ以上わたしに応戦するのはやめなさい。裏切り者の巫女君。それは無駄な抵抗というものだ」 「裏切り者……?」 「…………!」 ぼくとリラは首をかしげたが、日苗乃はひるんだ。ナイフを持つ右手が震えている。 「なんでそれを、知ってるの」 「どういうことだ」 ぼくの問いに、日苗乃は答えない。 「ねえ、なんで。なんで、わたしがあの子を殺したって知ってるの」 「その問いかけは君に返そう。『どうして、裏切ったんだ』とね」 男は日苗乃にそう言いつつ、ぼくとリラの方を見やった。 「あれ、君たちはなんだか妙な顔をしているね。やっぱり、知らなかったのか」 軽く、あまりに軽く。彼は真相を口にした。 「巫女君は、教団に黙って人を殺めた。連続殺人の六人目の犠牲者は、彼女が私情で殺したんだよ。神に対する裏切りさ」 「六人目」 ぼくは必死に記憶を手繰る。確か、六人目の犠牲者は八人の中で唯一の女性だった。ぼく自身は会ったことがなかったが、うちの学生でもあったはずだ。この男の言うことを鵜呑みにしたくはないが、当の日苗乃がここまで動揺しているのだから、真実なのだろう。 「どうしてそんなことを」 リラの悲痛な声には非難の響きが混じっていた。彼女が問いたいのは「なぜ殺したか」よりも「なぜ打ち明けてくれなかったか」なのだろうが、今となってはどちらでも同じことだった。 「その理由は、巫女に直接聞いたらどうかな、世話役のか弱い少女さん」 日苗乃はぐっと唇を噛んだ。リラやぼくが問いかけるより先に、絞り出すように言う。 「あの子が、せんせいの、悪口を言ったから」 ぼくもリラも、長髪の男すらも絶句していた。 彼女が、信じる神の教えを破り、唯一の友達を騙してまで人を殺めたのは……ぼくのため、だって? 日苗乃がこうしてこの男に命を狙われるのも、裏切り者の謗りを受けるのも、リラが悲しむのも、全部、ぼくの―― 「なんでだ、ヒナノ」 「許せなかった。ネコガミ様を裏切っちゃいけない、って思ったけど……止まらなかったの」 「なんで……どうして」 ぼくはオウムのように、同じ言葉を繰り返すことしかできない。日苗乃の目から大粒の涙がこぼれおちるのを見ても、励ますことすらままならない。 「せんせいが好きだから。せんせいはきれいで、やさしくて、ヒナノに冷たくしない。ヒナノは、せんせいの悪口なんて聞きたくなかった」 黙っているぼくを見ながら、日苗乃は言葉を重ねていく。ぼくは何も言えなくなる。何か言おうとしても、言葉が喉元から消えていく。 「……ほう」 沈黙を破ったのは、長髪の男。口を裂くようにして彼は笑った。 「おもしろい。実におもしろい。長い教団の歴史上、初めての巫女の離反。それを起こした原因が、よりによってこの男だとは」 くくっ、という小さな笑い声は、やがて気味が悪いほどの高笑いへと変わる。 「はははははっ! さすがのわたしも、そこまでは予測しきれなかった! おい、そこの第二巫女」 彼は乱暴にコトミを指差した。コトミは動かない。 「おまえは全部知ってたのか。知ってただろう、知っていて、黙っていた……ふふ、その根性だけは認めてやる。神ですら『全知全能』ではないというのに、おまえは『全知』を持っているのだからな」 コトミは黙ったまま、ただ首を横に振った。悲しげに伏せられる彼女の瞳。コトミが感情を表に出すのは、初めてかもしれない。それを見て、はっとした。 日苗乃の殺人よりも、明かすべきことがある。 それは、今を逃したら、永遠にわからないかもしれないことだ。 「おまえ、何者だ」 ぼくは迷わず、尖った問いを男にぶつけた。問いの答えはもう出ている。今までの情報をつなぎ合わせれば、明白なこと。この質問は、ただの答え合わせにすぎない。 リラは「教団の中に怪しい者はいない」と言った。 この男は、日苗乃とコトミを巫女と呼ぶ。明らかに、教団の関係者、もしくは教団について詳しく知る者だ。 さらに、彼は日苗乃の殺人を「裏切り」と称する。その言葉は、教団の内側にいる人間しか使わないもの。 最後のピースは、コトミのあの言葉。 『ただの人間』。 教団の団員ではないが、教団の関係者。そして人間じゃない。 それは、つまり。 長剣を手にした男は、優雅にふふんと軽く笑って、こう宣言した。 「神だよ。君たちの大好きな『ネコガミ様』さ」 |