第八章 コトミがいなければ、ぼくはあの奇妙な黒猫を神体だと信じ込んだままだっただろう。結局のところ、あの猫はただの猫だったのだ。誰も、ネコガミが猫をかたどった神だなんて一言も言っていないのにもかかわらず……ぼくは一人で勘違いをしていた。 「ネコ、ガミ……さま」 絶望したような声は、リラのものだった。蒼白で、今にも倒れそうな顔色。 「巫女たちはおおよそわかっていただろうね。全知の能を持つ第二巫女は言わずもがなだし、この『始まりの尾』も、巫女の『九番目の尾』と同じ、ネコガミの加護を受けた武器だ。切り結んでなお、その正体がわからないなんてただの馬鹿だ。そうだろう、巫女君」 と、彼は自分の持つ長剣を示した。『始まりの尾』と称された長剣が、あるじに呼応するように光った。日苗乃は黙っている。 おそらく、とぼくは類推する。彼女は理解はしていたが、その事実を信じていなかったのだ。信じたくなかった、と言い換えてもいい。 昨日の夜、日苗乃は言った。 『なんか、あんまり敵っぽくなかった』 『……あの人は殺しちゃいけない気がして』 そのとおりだった。彼は日苗乃の敵ではない。ましてや日苗乃が殺すべき相手でもない。 彼は、日苗乃が心から愛する神だ。彼女の心の、最後の拠り所。 そんな相手を『敵』だと断定することを、日苗乃の無意識は必死に拒んだ。自分を殺そうとする彼が『神』であるという事実も、彼女は信じたくなかったはずだ。その結果、彼女はそれらの事実を認識しなかった。結果として、彼女は男の正体に『気付かなかった』。無意識に、気づかないふりをした。日苗乃は自分の精神を、自ら騙したのだ。 そんなことをしなければならないほどに、日苗乃の心は疲弊してすりへっている。すべて、この男のせいで。ぼくは怒りを込めて男を睨んだ。 「そこの教師はぼくの身の上話と反省会を望んでいるみたいだけれど――そんな無粋な真似はしたくないね。名前だけ名乗らせてもらうことにする」 『神』は、にっこりと、愛想よく笑った。 「わたしの名前は、猫神正貴。正しく貴いと書いて、マサキ。猫神の血を受け継いだ、正統の中の正統、サラブレッドともいえる神様だ。ついでに言ってしまえば、巫女に忠告するために七人目と八人目を殺したのもわたし。ああすれば、君たちは自分の過ちに気付くと思った。……世話役の少女が事態を把握していなかったのは予想外だったがね」 ……もう話は終わった、と言いたげに彼は白い手を振った。 「さて、わたしは巫女に話がある」 日苗乃は緩慢な動作で顔を上げた。その瞳には人形のように感情がない。放心している。 「巫女君、ある条件と引き換えに、君の裏切りを帳消しにしてあげる。そうすれば、教団と神は元通り、君を巫女として寵愛して差し上げる、と約束しよう」 「条件って何だ」 反応しない日苗乃の代わりに、ぼくは問い返した。 彼の、長い剣――『始まりの尾』の切っ先がぼくを示した。 「そいつを、殺すことだ」 硬直していた日苗乃の肩が跳ねた。 「せんせいを、ころす」 「君の裏切りの原因を作ったのはそいつだろう。そいつを殺してしまえば、根源から排除できるってわけだ」 嗜虐的に笑う猫神。日苗乃が、ゆっくりと自分の武器を持ち上げる。彼女の瞳には光がない。 『九番目の尾』がぼくに向けられた。ぴたりと刃が止まる。ぼくか彼女、どちらかが少しでも動けば、頸動脈を切り裂く位置で。 「さあ、殺すんだ」 「ネコガミ様の、めいれい」 少女はぶつぶつとつぶやく。自分の中の何かと戦うように、ただ意味のない言葉を紡ぐ。 「神様に許してもらえる。ぜんぶ、なかったことに」 ナイフの先が、ぼくの首に当てられた。少しでも日苗乃が動けば、ぼくは死ぬ。 「さいしょから、やりなおし。出会ったことも、話したことも、なかったことに」 彼女の開いた瞳孔も、鋭い刃も、怖い。どうしようもなく怖い。でも。 「やりなおし。幸せに。巫女として、神様のご加護を」 彼女のすべては神様のためにあった。 巫女として生きること、それが日苗乃に残されたたったひとつの道だった。 でも、運命は狂ってしまう。彼女は神に黙って人を殺め、裏切りの謗りを受ける。 その裏切りを生んだのはぼくで、彼女の神を名乗る男は、ぼくが死ねばそれですべて済むという。日苗乃が幸せに生きられるなら、神に許してもらえるのなら、ぼくは死んでも―― 死んでも、いいんじゃないのか。 そうだ。ぼくは気づく。ようやく、思い出す。 ぼくと彼女は、昨日そういう結論にたどり着いたじゃないか。 お互いがお互いを、守ると誓ったじゃないか。 なら、殺されてもいい。心の中でそう唱えた。こうすれば、ぼくは彼女を守ることができる。死ぬのは怖いけれど、これでいい。これが最善の道。 「なかった、ことに」 そうつぶやきながら、日苗乃が腕を振るのが見えた。 「ごめんね。せんせいのこと大好きなのはほんとう。でも、わたしはネコガミさまの巫女だから。ネコガミさまの方が大好きだから」 皮膚の裂ける音がして、痛みが走る。 死ぬんだ、とぼんやり思った。昨日は出なかった血が、傷口からあふれて首に伝う。あたたかい感触。ぼくは目を閉じる。そのまま、静かに死を待つ。 ……沈黙が、世界に満ちた。終わったのだと思った。 「だめっ!」 そのとき、声が聞こえた。世界を切り裂くように、悲痛な声。 「だめよ、殺してはだめ。ヒナノ、その人は殺しちゃいけないわ!」 リラだ。 「その人は、ヒナノの『特別』なんでしょう!」 泣きじゃくり、駄々をこねる子供のように叫ぶ。 「ヒナノは、峰越を守るって言ったじゃないっ!」 水を打つような静寂。誰も、何も言わない。そして、ぼくの意識は暗転しない。世界が、止まったような気がした。 首から離された刃の代わりに、誰かがぼくの傷口に触れたのを感じて、そっと目を開ける。 日苗乃の白い指が、寄り添うように当てられている。少女の指は流れ出すぼくの血で濡れるが、よくよく見てみると、傷口はそんなに浅くない。静脈しか切れていないようだ。 「ごめん、なさい」 と日苗乃が言う。他の誰でもない、日苗乃が。彼女に視線を合わせる。瞳孔は開いたままだが、瞳に光が戻っていた。カラン、と軽い音が鳴る。『九番目の尾』が地に落ちたのだ。 「神よりも、男を選ぶか」 猫神が舌打ちをした。そんな『神』に、 「おまえなんか、神様じゃないっ!」 心の底から、他には何も考えず。ぼくは叫んでいた。 「神様の家に生まれたって、妙な剣を振り回したって、人を不幸に追いやる存在が『神』なんかであるはずがない。そんなことは、君たちに全然関係ないぼくにだって、わかることなのに! なんでっ!」 「……関係ない?」 男は落ち着いたまま、問いを投げた。 「そうだ、ぼくは通りすがっただけの、ネコガミには縁もゆかりもない、第三者――」 「おいおいおい、なんだそれは。とんだ馬鹿もいたものだ」 彼は愉快そうに嘲笑した。 「よもや、昨日のことを忘れたわけでもないだろう。刃で心臓を刺し貫かれて、のうのうと生きている一般人なんて、いるはずがない」 ぼく自身も理解できなかったあの出来事を、彼は持ち出した。 それは……神による、唐突な、そして残酷な宣告だった。 「君は人間じゃない。わたしと同じ、神だ。ミネコシ、とか言ったか。ひどくつまらないことだし、どうでもいいことではあるが、貴殿の名前の中にも――存在しているじゃないか」 吐き捨てるように、彼が言う。 「『ネコ』がね」 世界が逆転し、裏返る。 これまでぼくの生きてきた日々は、別の様相を呈しはじめる。 平凡で、つまらない人生。誇れるものといえば、何の役にも立たない透視能力だけ。長所なんて特になく、ずるずるとなんとなく生きつづけて、ここまで来た。 「でも、ぼくの家は普通の家だ。宗教なんて関係ないし、猫神の血なんて絶対、ひいていない」 ぼくは、必死に否定した。男はその言葉を踏みつけ、ぼくの目の前に事実を突きつける。 「ネコガミは完全には遺伝しないし、世襲制ではない。猫神の家に生まれたからって、全員が神になれるわけじゃないよ。ただ素質を持って生まれるだけ。……ごくまれに、総本家に関係しない部外者に素質が見つかることがあるらしい。いわゆる突然変異。それが君だ」 猫神正貴はそこで息を継いだ。 「君には自覚がなかった。生まれたときから自分が何なのかを自覚していれば、もっと神としての力がきちんと発現していたはずだ。そこにいる第二巫女の嘘に引っ掛かるなんて間抜けなことにもならなかった。神が信者に欺かれるなんて、馬鹿げている」 ぼくの日常が変わったのは一匹の黒猫のせいで、もっとさかのぼれば、日苗乃があの日帽子をかぶっていたからで、包帯を巻いていたからで。 すべて、ぼくのせいではないと思っていた。ぼく自身は、殺人にも、教団にも、神様にも、何にも関係していないと信じていた。全部、偶然だと。だからこそ、何が起きても一歩引いていられた。 「運命的な出会い? 偶然が重なりあって? ……違う。七ツ谷日苗乃と峰越純が出会ったのは、偶然なんかじゃない。ただのくだらない血の宿命だ。神と巫女だからにすぎない」 恋愛ではなく、ロマンチックな運命でもなく、偶然ですらない。 神と巫女だから。采配された運命だから――出会った。 「わたしは優しいから、他のことも教えてあげよう」 男は説明を始めたが、ぼくの耳には届いていなかった。 「昨日、わたしの剣が君を殺せなかったのは、君の中のネコガミの力が、わたしの『始まりの尾』の力を相殺したから。巫女の持つ『九番目の尾』とネコガミの継承者が正統に受け継ぐ『始まりの尾』。粒子構成は普通の刃物と同じだ。殺傷力もある。だがその刀身にネコガミの守護を受けているがゆえ、同じ量のネコガミの力をぶつければ、相殺してしまえるというわけだ。わたしも実際に見るのは初めてだったので、あのときは少々取り乱してしまった」 男は一人、くすくすと愉快そうに笑う。 「ただし、そこには刃に抗う強い意志が必要だ。だから大好きな巫女君が相手なら、無意識に力を使う意志なんか捨てて、あっさり殺されてくれるんじゃないかと期待していたんだが……無駄骨だったね」 彼は言葉を切り、地面に転がっている『九番目の尾』を鬱陶しげに一瞥した。 「ぼくを殺すように巫女に命じたのは、裏切りの原因だからじゃなく、神がもう一人いたら邪魔だから、ってことか」 ようやく、ぼくは言葉を絞り出した。 「そうだ。君がいたら、われわれ猫神本家の者が、正統な神になれる可能性が薄れていくからだ」 猫神の高笑いが響く。脳の中を痛めつけるように、反響する。 恋をしたと思っていた。特別な恋。 不可思議だけれど楽しい時間を過ごした。 真実を知っても、彼女のことを嫌いにはなれなかった。 笑顔を守りたいと思った。かわいそうだ、とも思った。 でもその感情はどこか「他人事」だったのだ。 自分は関係ない、自分はどこまでもアウトサイダーだ。だからこそ彼女を助けられる。助ける資格がある。そんな認識が、ぼくの中の日苗乃への感情を支える土台だった。 なのに、なのに――ぼくは他人なんかじゃなく、核心に一番近い場所にいた。知らず知らずのうちに、踏み込んでいた。ぼくが打ち砕くべき神は、殺すべき罪悪は、ここで笑っているこの男、猫神と…… そして、ぼく自身。 「そんな……こと、って」 「絶望しただろう。自分を信じられないだろう。それでいい。神が信じるべきなのは自分ではない。信者だ」 くははは、と男が笑った。男は剣を持ち上げ、切っ先をこちらへと向ける。 「さあ、君の力を見せてもらおうか。峰越……いや、敬意を込めてこう呼ぼう」 長い『尾』はまっすぐに、ぼくを指した。 「猫神の血を引かない、異端のネコガミ殿」 叩きつけるようなその声を合図に、異変が起きた。 ずるり、と自分の中身を引きずりだされるような感覚。眩暈と共に身体が大きく傾いだ。内臓でも持って行かれたのかと思ったが、体には何の変化も起きてはいない。 軽い金属音と共に、目の前に何かが落ちる。その小さな金属が、ぼくの体から引っ張り出されたものだ、と気づくまでに数秒を要した。「それ」は、銀色の光を帯びてそこに転がっている。 「ほう……それが君の『尾』か」 正貴が近づいてきて、感慨深げに言う。 そう言われてようやく、「それ」がぼくにとっての武器であることを理解した。彼が、その神の力でもって、無理やりにぼくの中から引きずりだしたらしい。 自分は人間じゃない。この男と同じものなんだ――という自覚がゆるゆると、しかし確実に生まれる。 「それ」はあまりに小さい上に、武器らしい形状をしていない。日苗乃のナイフ『九番目の尾』、猫神正貴の長剣『始まりの尾』――それらに比べて、ぼくの『尾』はただの金属の塊のように見える。平べったい楕円形、まるでいびつなフリスビーだ。 「妙な形の尾だ。まったく、できそこないにふさわしい」 反論している余裕はなかった。まず、これを拾い上げなければ。しゃがんで、手を伸ばして触れてみると、手の先が切れた。どうやらこの『尾』、刀における刀身の部分のみで構成されているらしい。刃物ではあるが、持ち手と柄が存在しないのだ。おそるおそる拾い上げてみるが、少しでも力を入れて持つと手が切れてしまう。 「正直、失望しているよ」 正貴はくすくすと笑う。 「そんな、武器としての体裁すら持たない塊が、君の武器だなんてね」 笑いながら、彼は長剣を構え、ぼくと対峙した。 「さて、君と殺し合う前に、ルールを説明しておいてあげよう。わたしは優しい神様だから、他の全てが不平等でも、条件だけは対等に設定してあげる。……『尾』はネコガミにとっては命と同じものだ。それを砕かれれば、本体が無傷であっても一瞬で死に落ちる。その『尾』を体外へ出した君に、もう昨日のようなラッキーは訪れない。ここから先は、君とわたしとの決死の殺し合いってことだ」 彼の姿は、神様と言うよりも死神だ。シュレディンガー、という単語が自然と浮かぶ。もしもあの都市伝説が事実に基づいているとしたら、たぶんその正体はこの男であるに違いない。容赦なく人を断罪して死を告げる、処刑人。日苗乃も殺人者だったが、真にシュレディンガーと呼ばれるべきなのは間違いなくこいつの方だ。 「『尾』を砕かれた方が死ぬ。ルールは以上。さあ――」 長髪の処刑人は笑顔で、始まりを告げた。 「殺し合おうか」 一撃目を刃で受け止めると、やはり大幅に手のひらが切れた。血が噴き出すが、猫神にとってその一撃は、小手調べにすぎなかったらしい。一瞬だけ間を置いて、二回目の斬撃。今度は受け止めずに、ぎりぎりのタイミングで避けた。 まともに受け止めたら、自分の武器で指を切り落とされてしまう。戦闘経験のないぼくだが、それはなんとなく肌でわかった。では、どうすればいいのか。 避けるしかない。少なくとも、それしか思いつかない。 「避けるだけでは、わたしの『尾』は砕けないよ」 言われなくてもわかっている。 だが、持ち手のない刃物で人を切りつければ、自分の方がダメージを負う。下手をすれば、猫神は無傷で、ぼくの方だけ余計な傷を負いかねない。攻撃するのも防御するのも不可能。とすれば、避けるしか選択肢はない。 「ちくしょうっ……」 これでは武器の意味がない。むしろ邪魔なだけだ。 「せんせいっ」 日苗乃の声がする。ぼくの視界の中に彼女はいないが、ナイフを拾って加勢しようとしているのかもしれない。 「邪魔をするな、巫女」 凛とした神の声が日苗乃を制す。 「これは神対神の生存競争。神聖な儀式だ。巫女といえど、邪魔は許されぬ」 日苗乃は加勢を諦めたらしかった。彼女の姿は見えないが、猫神が日苗乃の方を見るのをやめ、ぼくへの攻撃に専念しはじめたので、たぶんそうだ。 「よそ見をしていると、死んでしまうよ?」 ワン、ツー、スリー。軽やかな号令が聞こえてきそうなステップ。優雅に、踊るように踏みこみ、猫神は剣を振るう。ステップに合わせた剣撃は、全部で三回。うち二回はなんとか避けることができたが、最後の一撃はぼくの左肩を切り裂いた。血が噴き出す。猫神が言ったとおり、昨日のような魔法は起こらない。剣が貫通しても死なないなんて非現実じみた魔法は――もう、起こり得ないのだ。痛みも出血もある。このままだと、死ぬ。 「……死ぬ?」 死ぬ、ということ。意識の隅でそれを考える。 ぼくがこの場から消えてなくなる。 そうなったら、誰とも話せないし、誰にも影響を及ぼさない。少なくともネコガミというものを信じる者たちの中では、猫神正貴という唯一神が信仰されていくことになるだろう。ぼくというできそこないの「神」の存在は、ひそやかに抹消される。 そして、日苗乃と双子も、そのとき一緒に抹消されてしまうのだろう。 ぼくが死んだら、日苗乃と双子も殺されてしまう。 「それは……嫌だっ!」 ぼくは、一歩後ろへと飛びのく。そして、ブーメランを投げるように――自分の『尾』を猫神の方へ投げつけた。何も考えていなかった。刀身のみの奇妙な武器は、まっすぐに猫神の顔めがけて飛んでいく。 「刀を投げるなんて……正気か?」 猫神は一瞬面喰ったようだったが、すぐに落ち着いた調子で剣を振るい、ぼくの『尾』をたたき落とした。 「ちっ……」 何をやってるんだ。武器を投げつけるなんて、殺してくれと言っているようなものじゃないか。これではぼくは丸腰だ。血迷った自分を罵りつつ、身を躍らせる。落ちた『尾』を拾わなければ。このままでは本当に負けてしまう。 「峰越っ! コトミの言葉を聞きなさいっ!」 誰かが叫ぶのが聞こえ、動きを止める。リラの声だ。視界の外側で、彼女が叫んでいる。 「それは、手に持って使う武器!」 続けてそう叫んだその声もリラのものかと、一瞬錯覚した。 よく似ているが、違う。これはコトミの声だ。 真実と真逆の事実を伝える、第二巫女の言葉……つまり。 「『手に持って使う武器』……じゃない、ってことか……!」 その言葉で、ようやくわかった。この金属の塊の使い道が。 突き出すように、右手を空中にかざす。 「動け」 ぼくは『尾』に触れていないが、地を滑るようにして『尾』がひとりでに移動した。 どうやら、正解らしい。そういえば最初、この金属塊を見たとき――「フリスビー」のようだと思った。その直感はある意味、的を射ていた。 フリスビーは、人の手を離れて飛んでいくもの。ぼくの『尾』は刀やナイフといった一般的な凶器ではなく――ぼくの念動力で動かす、超能力的な武器だ。今までのぼくは、自分の超能力を「透視能力」だと認識していたが、実際は他にも力があったのだ。ただ、ぼくが自覚していなかった、使おうとしなかっただけで。 この『尾』はサイコキネシスで操作するもの。 それさえわかれば、使いこなすのは簡単なはずだ。 ずるずると地を這い移動する『尾』に、こう念じる。 飛べ、そしてあいつを切り裂け。 『尾』はゆっくりと宙に浮かび、そのまま猫神めがけて――飛ぶ。 「何っ……」 唐突に飛んできた『尾』を、猫神がぎりぎりのところで避けた。不意を突かれた彼の頬に一筋、傷がつく。 ぼくの攻撃が効いている。このまま、この武器をうまく使えば、あの長剣を砕くことも可能なはずだ。ぼくは思わず笑ってしまう。唇の端を釣り上げた、邪悪なチェシャ猫笑い。 「ほう……これは、なかなかおもしろい」 猫神はまだ余裕だった。これくらいのことでは戦意を喪失してはくれないらしい。 「よくできたおもちゃのようだ。しかし、その『尾』……致命的な欠陥がある」 「欠陥……?」 『尾』を彼めがけて飛ばしつつ、ぼくは軽く振るわれた彼の剣を避ける。 「遠隔操作であるがゆえ、遠くまで飛ばしてしまうと本体がガラ空き」 流暢に話しながら、彼の剣がぼくのすぐ横を通り過ぎた。反撃しなければ、と思うが――彼の言うとおり、ぼくの武器は反撃できる範囲にない。急いで、呼び戻そうと念を飛ばす。 「だが、間に合わない」 「……っ!」 鋭い突き。それを受けるぼくは丸腰だ。 剣はぼくの左肩……先ほどと同じ位置に刺さった。 「ぐ……あっ」 「あえて心臓を外した。もう少し、悪足掻きを見せてもらおうか」 「ちっ……行けっ!」 ぼくの指が猫神を示し、『尾』がまっすぐに飛んでいく。 「『まっすぐ』だけではわたしは倒せない」 つぶやくように解説しながら、猫神は軽やかなステップでぼくの前へと移動。 またも、武器を持たないぼくを――剣が貫いた。鈍い痛み。今度は、左足だ。 「さて、その場から動けなくなったところで、その『尾』の、もうひとつの重大な欠陥を君は知る」 彼は語る。独り言のように、詩の朗読でもするかのように――朗々と。 「『尾』はネコガミにとって命と同義、とわたしは言ったはずだ」 「だから、どうした、んだ……」 ぼくは切れ切れに返答する。同時に、嫌な予感がした。 「命を自らの意志で手放すなんて――愚かなことだとは思わないか?」 「……な」 そんな指摘は意味をなさない。手放さなければ、この『尾』は武器として機能しないのだから。 しかし、彼の言葉でぼくは気づいてしまう。どうしようもなく気づかされてしまう。 今、空中を飛んでいる小さな刃。あれを、猫神が強く切りつけて、砕いてしまったら。 ぼくの本当の体にはまったく関係なく、命が消える――? しかも、今ぼくは左足を引きずってしか移動できない。『尾』はぼくに見える範囲でしか飛ばせない。必然的に、これは戦闘ではなく鬼ごっこだと悟る。 ぼくが逃げる側、彼が追う側。 不平等中の不平等、不条理中の不条理。 このままでは――捕まえられてしまうだけだ。 「君を動けなくしておいて、周囲を迷子のように飛び回るそれを捕まえて、砕く。そんなことは、わたしにとっては息をするより簡単なことだな」 猫神が、動いた。ぼくの方へではなく、空中を飛ぶぼくの分身の方へ―― そのとき、キン、と大きな金属音がその場に響き、同時に大きな何かが宙を舞ったのが見えた。続いて、ザクッという音が聞こえた。 結論から言ってしまえば、猫神が喋っている間に突然、目にも止まらぬ速さで動いたのは日苗乃だった。 キン、とは日苗乃の『九番目の尾』が猫神の長剣をはじいた音。そのまま遠くまで弾き飛ばされた『始まりの尾』が、宙を飛び、あるじの手を離れて地面に刺さったのだ。 「な、んだと……」 ぼくとの会話に気を取られていたのだろう、猫神は突然武器を奪われて狼狽したようだった。 「ヒナノ、今とってもうれしいな。かぷかぷ」 自らの『尾』を至近距離から神の首筋に突きつけた少女は、笑う。 「だいすきなせんせいは、だいすきなネコガミさま。こんなに愉快で楽しいことって、他にあるかしら」 「何をやっている、巫女。わたしは神だぞ。そこにいるできそこないとは違う、正真正銘の猫神だぞ……刃をおろせっ」 猫神は焦った調子でまくしたてるが、日苗乃はその言葉を聞いていない。 「『まっすぐ』だけではネコガミ様は倒せない。じゃあ、ヒナノのこのナイフを使えばいいわ。このナイフは曲がっていて歪んでいるから。 命を手放すのは愚かなこと、ってネコガミ様はおっしゃった。今のネコガミ様も、『尾』を手放しているから、愚か。 ヒナノ、ずっとここであなたの言うこと、聞いてた。全部全部、知ってるよ。そして、聞いてる間に、こう決めたの」 ロボットのように抑揚のない口調だったが、その顔は歓喜の表情を浮かべていた。新しいおもちゃを買い与えられた子供のように、ナイフを手にした巫女は笑っている。 「せんせいが神様なら、こっちの神様はヒナノにはいらない。神様はふたりもいらないわ。切り裂いて、殺して、ぜんぶなかったことにしましょう。最初からせんせいだけが神様だったことにした方が、美しい」 とても無邪気に、少女は宣告した。 「――死んじゃえ。」 「ちっ……」 猫神の小さな舌打ちが聞こえ、次の瞬間、その首筋から血が噴き出した。さっきのぼくのものとは比べ物にならない出血。日苗乃は迷うことなく、彼の動脈を深く切り裂いたのだ。噴水のように血があふれて止まらない。返り血が多すぎて、霧のように彼の姿を隠している。そのせいで、猫神の死体すら見えない。吐き気がするような光景だったが、 「うふふふふ」 日苗乃は、返り血を浴びて笑っていた。楽しげに。何かから自由になったかのように。 「うふふふふ、あははははは」 「ヒナノ」 名前を呼ぶと、彼女は笑うのをやめて振り返った。髪も顔も、まとっている服すら真っ赤に染めて。 「やったよ」 少女は、褒めてほしいとでも言いたげに、小さく首をかしげる。 「二人で、生き残ったよ」 「……そうだな」 それしか言えない。それ以上何かを言うことは、今のぼくにはできなかった。いろんなことがめまぐるしく起きすぎていて、感覚が麻痺している。少なくとも、この男が死んでも悲しくも何ともなかった。ぼくは足を引きずりながら移動し、自分の『尾』を拾い上げた。鈍く輝くぼくの分身。結局、こいつの能力を生かしてやることはできなかった。 ぱたぱたという足音がした。遠くで様子をうかがっていたリラとコトミが駆け寄ってきた音だった。 「……峰越、じゃなくて……ネコガミ様って呼んだ方がいいかしら」 リラはばつが悪そうに目を伏せた。コトミは何も言わない。 「峰越でいい」 「じゃあ、峰越。時間がないから、簡潔に言うわ」 リラはぼくを見据えた。悲しげな視線。 「――逃げなさい。ヒナノを連れて、できるだけ遠くへ」 「なんで」 唐突なリラの言葉に、思わず問い返す。 「神殺しは大罪なの。ここでこの男が死んだら、猫神本家が動き出すわ。見つかったら、ヒナノは殺されるし、あなたは神体として利用される」 その言葉に、背筋が凍った。日苗乃も笑みを消して聞いている。 「わたしとコトミを連れていったら、足手まといになるし、見つかりやすくなる。だから、二人で逃げなさい。追手に捕まりそうになったら、迷わず殺していい」 さようなら、とコトミが声を出さずに唇の動きだけで伝えた。それは『嘘しかつけない』彼女がせいいっぱいの力で紡いだ「ほんとう」の言葉だったに違いない。ぼくは力強く頷く。 「わかった。ぼくが、ヒナノを守るよ」 日苗乃の手を取った。血で濡れた小さな手だ。 その手が、ぼくの手を握り返した。強く強く。彼女は何も言わない。言わなくても、気持ちはぜんぶ伝わってくる。それすらも神と巫女だからだ、と彼らは笑うだろうか。でもぼくは、それでも構わない。 神と、神が選んだたった一人の巫女。 ぼくらは、お互いを守ると誓った、運命共同体なのだから。 ぼくは左足を引きずりながら、走りだす。たとえ足が動かなくなったとしても、どこまでだって走っていってやる、と思う。 こうして――ぼくたち二人は、表側の世界から消えた。 手をつないで走り出す、異端のネコガミと裏切り者の巫女。その後ろ姿を見ながら、正貴はため息をついた。 「はぁ、まじで死ぬかと思った。あとで本家に連絡しとかないと、怒られるだろうなあ」 ぱっくりと裂けた首筋をなでながら、正貴はゆっくりと起き上がる。 「逃げられるところまで、逃げればいい。神体としての君が必要になったら、本家は君を探しはじめるだろう。そのときまで、せいぜい楽しい恋人ごっこをすればいいさ」 そうつぶやいて、正貴はふらふらしながら、夜の闇に消えていく。……手負いの黒猫のように。 「楽しい追いかけっこになりそうだ……ふふ」 |