祈ろう、空に

 猫神琴路の居場所が分かった、と四栂が告げる。黙って頷きながら、猫神純貴は琴路の顔を思い出した。純正のシリアルキラー。殺人鬼の中の殺人鬼。殺すためだけに生きる巫女。
 同時に、彼女に無残に殺された自分の恋人のことを思う。彼女は人間の形をとどめて死ぬことすら許されなかった。ぎりり、と無意識のうちに歯噛みする。
「日苗乃……」
純貴が呟いた言葉に、四栂はぴくりと肩を動かして反応する。
「純貴さま」
彼は引き攣るような顔で言う。およそ彼らしくない、余裕のない表情。
「お話があります」
「なんだ?」
この数カ月、四栂は純貴の側近として暗躍している。現在、純貴にとって一番信用できる部下である。何を考えているのかわからない、と当初は思ったものだが、ここ最近はそんなに気にならない。むしろ、不思議なのは彼の名前だ。四栂、という名字の人間は教団には彼以外に誰もいない。過去にいた形跡もない。基本的に「家」が教えを継承していく形の教団内で、このようなケースは非常に稀有である。彼が七ツ谷に忠誠を誓う理由も、不明瞭なままだ。
「日苗乃のことです」
四栂の声は小さく、しかし、純貴の心をとらえるには十分な響きだった。
「日苗乃の、こと?」
「あなたは、不思議ではありませんか。わたしが、あなたを支持する理由なんてない。普通なら、琴路の方につくはずだ」
「七ツ谷派だから、じゃないのか? ぼくはずっと、そういう派閥抗争が教団にあるのだと思っていたけれど。それに、琴路は教団の中でも、うとまれている。殺人鬼だ、とおまえが言っていた」
純貴の言葉を聞き、四栂はため息をついた。
「あなたは、耳に入る情報を信用しすぎるきらいがあります。わたしの言うことが真実だという保証など、どこにもない。わたしが教団を乗っ取りたいと願っている野心家だったとしたら、もうあなたは死んでいるでしょう」
「おまえの情報が、嘘だったというのか?」
「ぶっちゃけた話、これまで、あなたの前でわたしが口にした言葉は、全部が本当ではありませんでしたよ。あなたが信じたかどうかは別として」
「そうか。まあ、別にかまわないけど」
純貴は悠々と受け流し、
「で、おまえがぼくを支持する理由とは? それだけは、真実を教えてくれるんだろ?」
と問いかけた。そこにはもう、怯えた『人間』の表情は微塵も見られない。立派な『猫神』の風格。
峰越純という名前の人間は、死んだのかもしれない。
「『四栂』という苗字は、偽名です」
四栂はそう言って、自嘲するように笑った。
「四栂、という単語は、どういう意味だかわかりますか?」
「わからないな」
「四つのトガ――咎。あやまち。わたしは、これまでに、四つあやまちを犯した。そういう意味です」
純貴は、少し迷ってから言う。「四つのあやまちとは?」
「まず、生まれてきたこと。そして、ある人を愛したこと。その人との間に子をもうけたこと。最後に、その子を見捨てて逃げたこと。これですべてです」
四栂の表情は読めない。これも、嘘なのだろうか。作り話なのだろうか――と純貴は一瞬考える。
が、そんなことを考えても詮無い。純貴は、四栂に詳しく話を聞こうと思った。
「その人とは、教団内の誰かなのか? そもそも、おまえの本名は? 日苗乃との関係は?」
「質問攻めですね」
四栂は苦笑してから、こう言った。
「驚かずに聞いていただけますか?」
四栂の声が、狭い部屋の中に響いた。
「わたしは、姉と姦通しました」
純貴が絶句している間に、追い詰めるように四栂は言葉を継いでいく。
「それで生まれたのが、日苗乃です」
四栂は寂しそうに続けた。その言葉はどこか非現実的で、信じられない。
夢の中にいるような、奇妙な浮遊感を感じる。
「日苗乃が狂わされたのは、きっと教団だけのせいではなく、わたしたちの……」
近親相姦の結果生まれた子供は、精神異常を抱えていることが多い……それくらいは、純貴も知っていた。猫神の教団の中で、近親相姦自体は珍しいものではないからだ。琴路のような極端な例は、そうそう存在しないらしいが。
ただし、この異常な教団の中でさえ、兄弟姉妹の間での姦通は――『猫神』の名前を持つ者にしか許されないという。
正貴と琴路。
本家には許されても、分家には許されない――禁忌。

「それ以上言うな、四栂」
純貴は声を絞り出す。鈍感な彼にも、ようやく、四栂がここにいる理由が分かった。
七ツ谷への忠誠、なんてものではない。
もう二度と取り戻せない過去への――償いだ。
日苗乃が死んだことが純貴のせいであったように、
日苗乃が生まれたのは、四栂のせいだった。
そこには罪なんて存在しない。
けれど、四栂は確かにそこに、自分の罪を見たのだろう。

「わたしは、忌まわしき子を作ったことを悔いていたのです」
四栂は淡々と、罪を告白していく。
「七ツ谷が滅ぼされたあの日、わたしは我が身惜しさにここから逃げた。幼い日苗乃を置いて、一人で」
純貴の脳裏には、今までに何度も思い浮かべた、当時の日苗乃の姿があった。
七ツ谷の、たったひとりの生き残り――それが日苗乃の背負っている重い肩書きだった。
たったひとり。
家族は誰もいない。
全員、無残に殺された。誰もが、そう思っていた。
でも、そうではなかった。
ここにもう一人、いる。
四栂遠矢は――七ツ谷家の最後の一人、だったのだ。

「その後は、毎日のように追手が来る、必死にそれを振り切って逃げる――そんな生活でした。そのまま、身を隠してしまえば、わたしはきっと普通の人間として、生きていけたでしょう。でも、娘を放っておけなかった。どうしても」
四栂はそこで、少し笑った。
「顔を変え、名前を変えて、もう一度ここに戻ってきたのは、日苗乃が心配だったからです」
純貴は黙っていた。黙ったまま、日苗乃の顔を思い出して、何とも言えない悲しさを感じた。
まるで、深い森の中で仲間を見つけたときの安心のような、悲しさを。
「七ツ谷遠矢は、死んだのです。ここにいるのは無様な飼い犬、猫神の犬です。日苗乃が死んで、わたしはあなたを暗殺してやろうと思った。それすらできないわたしは、やっぱりあの頃と同じで臆病なのです」

「そんなわたしを、あなたは殺す権利がある」

四栂の言いたかったことは、つまりその一言だけだったのだろう。
罪があって罰がない、その現実が嫌で嫌で仕方なくて。
誰かに裁いてほしいと願いつづけていた。
裁いてもらうために……ここまで来た。
猫神純貴につき従ったのも、
猫神琴路に敵対したのも、
すべては贖罪のため。

「猫神琴路」

純貴は、一言、それだけ告げた。
意味がわからない、と言いたげに黙る四栂に、純貴はこう言ってやる。
「今は、琴路を見つけ出して何とかするのが筋だ。おまえを殺してる暇なんかないし、殺してやるつもりもない。そして、この先ずっと、おまえを殺したりなんかしない」
「どうして。わたしさえいなければ、日苗乃はもっと」
「それが間違いなんだよ。ぼくは日苗乃と出会えて感謝してる。わけのわからない場所に引っ張ってこられて迷惑だ、なんて思わない。ぼくは生まれつきネコガミで、人間じゃなかったんだから。日苗乃がいなくたって、いずれこうなってたはずだ」
四栂は目を見開いたまま、純貴の言葉を聞いていた。
「日苗乃を愛してる。彼女の存在を祝福する。他の誰がしなくても、ぼくだけは」
狂人であろうと、望まれない子であろうと、殺人犯であろうと――関係ない。
日苗乃は日苗乃。
それだけが、答えだ。
「だいたい、ぼくに殺してもらおうなんて甘いんだよ。ぼくを侮っているのか? そうすれば殺してもらえる、なんて思ってたなら残念だったな。ぼくはおまえが思ってるよりずっと、意地悪で最低な神様だよ」
軽い口調で純貴がそう言うと、四栂は困ったように笑顔になった。
そう――笑顔。
それでいい、おまえは笑っていればいい。純貴は心の中で彼にそう話しかける。
死んだ日苗乃の代わりに、ではなく。
生きている四栂遠矢として。
七ツ谷の血を継ぐ一人として――

「ああ、あなたはやはり」
四栂は、生まれ変わったように、言葉を紡いだ。純貴の耳には、その声は泣いているように響いた。
「おかしな、人だ」
人じゃない、神様だ……と、純貴は言って、窓の外を見やった。空は暗く、すべてを呑み込んでしまいそうな色でそこにある。それでも空は、そこにある。人間は、罪を犯しても生きなくてはいけないし、死ぬときには死ななければならない。罪は償わなければ心を圧迫する。罰は与えられなければ不安になる。神だって根本は同じだ。空が空としてそこにあるのと同じ。神が神として顕現するのも、現象としてはほとんど変わらない。
ただ、神にすがる人間がここには存在して、空に祈る神がここに一人だけ存在する、というだけで。




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