「ハッピーバレンタインデーイっ!!」
と叫びながらチロルチョコを紙吹雪のごとく撒いている少女・七ツ谷ひなの。ふわふわの茶色い髪が、風でなびいていた。
 ちなみにここは、ぼくの研究室だ。本来、そんなバカ騒ぎに使うような場所ではない。
 ぼくは峰越純という。この大学の常勤講師だ。ひなのはぼくの教え子である。そして――
「ひなのにもらえるならチロルチョコでもかまわないわ!」
金髪のマッシュルームカット少女、その1。名前はリラ。なぜか必死に床に落ちたチロルチョコを拾っている。
 彼女のことを「その1」と言ったのは、まったく同じ容姿を持った少女がもう一人いるからだ。
「……百合要素」
マッシュルームカットの金髪少女その2、コトミは基本的にあまり話さない。今日も今のところ、ほぼ無言だった。
「リラ……パンツ見えそうだぞ」
 ゴスロリミニスカートのまま床にはいつくばってチョコと格闘していたリラは、ぼくの言葉を聞いてようやくこちらを見た。
「あら、いたの? 峰越」
平然と立ち上がって、優雅にそう挨拶する。
「いたっていうか、ここはぼくの研究室だよ……あと、スカートがめくれたままだぜ」
「淫行教師はお黙りなさいな」
言いながらスカートを直す。……素直じゃない女だ。
「もー、今日はバレンタインデーだよっ? もっと仲良くしなきゃ神様に怒られちゃうよ、二人ともっ」
底抜けに明るい声で、ひなのが言った。なんだか少し、バレンタインデーを誤解しているようだ。
「リラもせんせいにチョコレート持ってきたんだから、渡さなきゃだめだよー」
「うえっ、まじで?」
驚きのあまり変な声がでてしまった。
 通称「デレのないツンデレ」ことリラが、ぼくにチョコレートを持ってくるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないと思っていた。ていうか、これからひっくり返るんじゃないだろうか。
「ちょっと、気持ち悪い声で鳴くのはやめてくださる?……このチョコレートは別にあなたのために持ってきたんじゃないわ!」
……いっそすがすがしいまでにツンデレ口調な少女だった。そんなリラは頬を染めながら、叫ぶ。
「ひなののために作ったのです。大好きで大切で、最高にかわいく麗しい……わたしだけのひなののために!」
こ、こいつ……今回はシリアス回じゃないからというただそれだけの理由で、開き直りやがったっ……(百合的な意味で)。
 自分以外に男性キャラクターがほぼいないからって、油断してる場合じゃなかった……
 主人公、峰越純に新たな恋敵出現。その名はリラ――最強の金髪美形ゴスロリ百合少女である。続きはWebで……と言いたいが、そういうわけにはいかないらしい。
「えへ。わたしもリラのことが大好きだよー」
無邪気に笑うひなのはやっぱり、空気が読めていなかった。
 お前の言ってる「好き」とリラの「好き」、なにか決定的に違うところがあるぞ!
 気づいてくれ、ひなの……!!
 ひなのの方へと念を飛ばしてみるが、ぼくと彼女には、特にテレパス系の超能力とかそういうものがあるわけではないので届かなかった。無念だ。
「……ライバル出現後のフラグ回収はけっこう困難」
「何を言ってるんだ……コトミ」
唐突に割り込んできた無口な少女はこう告げた。
「ひなのルートから分岐した場合、失敗すると某長髪神様とのBLエンドしか残っていない」
「ちょ、え、何でだ!?」
理不尽すぎるギャルゲ世界!
 シナリオライターの大人の事情!
 回収されない伏線、流れないスタッフロール!!
 ……よく知らないが、適当にそれっぽいことを叫んでみた。
 確かに、重要キャラの攻略に失敗するとBLオチになるゲームってたまにあるけど!
 あからさまな嫌がらせというやつだ。
 そもそも、ぼくの人生はゲームじゃない。一度エンドを迎えてしまうとたぶんやり直せないはずなので、ちょっとそういうヘビーなのは勘弁してほしかった。
 ……切々とそう思ったが、そういえばコトミは「嘘しか言えない」という設定だったはずだ、と気づく。
「なんだ、嘘か……」
一瞬マジでビビったじゃないか……
しかしコトミはそんなぼくを見て、哀れそうに目を細めた。
「嘘じゃない。『嘘しか言えない』という言葉自体が嘘だった、というお約束展開」
「な、なんだって――!!」
思わずキバヤシ突っ込みを発動させてしまった。
 そんな重要なことを、なぜこの場で!?
「だって、そういうことにしておかないと、わたしにセリフが回ってこないから」
…………コトミさん、意外と自己中だった。
 そんな理由で設定を捻じ曲げてもいいのかよ……
 いろんな意味でがっかりだ。
「ちなみに、今ならまだわたしのルートにも入れます」
混乱に乗じてさりげなく誘惑してきやがった。普段無表情なコトミが、懸命にウインクするさまはけっこう魅力的だ。反則だ。揺らぎそうになる。
「え、遠慮しておきます……」
さすがにここでコトミに揺らぐのは男としてどうなんだ、と思ったので……後ずさりながら丁重にお断りしておいた。
「残念……でもとりあえず、チョコレートは渡しておく」
コトミがポケットから取り出したのは、気合いの入ったラッピングの施されたハート型のチョコレートだ。
 このタイミングでそういう、誰の目にも明らかな本命チョコを渡すのは……正直、どうかと思う。
 客観的に見て、ぼく、ものすごく悪いことしてるっぽい。
 けなげな薄幸の少女を捨てて他の女に走ろうとしてる感があるぞ……
 すべて計算ずくなのだとしたら、わりと策士だ。
 しかし渡されたチョコレートをむげに扱うわけにもいかない。とりあえず開封して、一口かじってみる。
 そして即――吐きだした。
「……超苦い……」
見た目がまともだったので油断したが、このチョコレートは……
 顔をしかめているぼくに、コトミは平然と真実を告げる。
「カカオ99%の純正チョコレート」
彼女が口にした真実は――重く、心の底に沈んで。
 そうして、ぼくの心を内側から蝕んでいくのだ。
 沼の底に沈澱して行く薄い泥のように。
 じわじわと侵食し、人を不幸にする。いつだってそうだ。
 そう、だから彼女はあえて――
「って、語りをシリアスっぽくしてみても、だめなもんはだめだろ……!」
よくわからないまま、勢いでコトミルートに入るところだった。危ない。
「なあコトミ、チョコレートの中のカカオの割合と愛の割合は比例しないんだぞ……?」
「…………?」
今更のように無口キャラっぽく首をかしげるコトミは――策士中の策士、だった。
「ねえ峰越、なんだかいい雰囲気ね……」
背後にひやりとした殺気を感じた。
 振り返ると、リラがこちらをにらんでいる。
 その背後には無邪気にほほ笑むひなのの姿が……
 これって実は、修羅場じゃないか……とようやく気づく。
「あの、ぼくは別にそういうつもりじゃないんだ、ひなの」
慌てて言い訳してみるが、
「そこで慌てるのが一番怪しいわ!」
リラのきついツッコミが入り、とりあえずぼくは一旦黙る。
「せんせいは、コトミが好きなの?」
問いかけながら、ひなのが一歩前に進み出る。
「……ひなのより、コトミの方が好きなの?」
潤んだ目で言うひなの。その手にはまだ、チロルチョコが大量に入ったカゴが握られている。彼女は手の色が白く変わってしまいそうなくらいに――強く、それを握っている。
「そ、そんなわけないだろ? ぼくが一番好きなのは、その、」
ぐっとつばを飲み込んでから、ぼくは言った。
「……ひなの、だ」
ひなのの瞳孔が開いて、ぼくを見る。冷やかにも温かくも見える、不思議なまなざし。
 そのまま口を開けずにチェシャ猫のごとく笑い、少女はカゴの中からチョコレートを取り出した。
「はい、せんせいにチョコレート、あげるね」
「……あ、ありがとう」
「ふふ、せんせいには特別に、杏仁豆腐味をあげる」
「それってどこらへんが特別なんだ……」
いまいち基準がよくわからなかったが――
 とにかく、修羅場はわずか数行で過ぎ去り……ぼくの研究室には平和なバレンタインデーが戻ってきたらしい。
 まあ、よく考えるとそんなに平和でもなかった。部屋を散らかしすぎて後日、教授に怒られたり、……部屋の隅では嫉妬に狂った獣が一匹唸っていたり。
「許しませんわ……ひなのの特別は、わたしがいただくつもりだったのにっ!」
金髪の獣(霊長類)は自分のポケットからブランド物のチョコレートを取り出し、ぼくに思いっきり投げつけた。がつーん、という漫画的な効果音が聞こえ、頭がくらくらする。
 ……失神しそうに痛かった。
「そのチョコレート、ひなのにあげるんじゃないのかよ……」
「ひなのにはもうあげました。それは峰越とかいう淫行教師の分です!いわゆるひとつの義理チョコですわ!」
今度はまじで冷ややかな口調だった。
「義理チョコって言うか、むしろぼくの意識がギリギリなわけなんだけど……」
「うまいことを言っても、もう何もあげません」
チョコレートって投げつけられるとけっこう痛いんだな……とぼんやり考えながら、ぼくの意識は体を離れていった。
「…………幽体離脱」
呑気に実況していないで、助けてくれないかな……コトミ。
 きゃっきゃとチョコレートを撒くひなのの声を聞きながら、ぼくは目を閉じた。


「っていう夢を見たんだって。コトミが」
いっそすがすがしいくらいのはじける笑顔で、七ツ谷日苗乃がそう告げた。
 非常にコメントしにくいが――いわゆる夢オチ、だった。しかも他人の。
「それ、正夢になるんじゃないだろうな……」
今日は二月十三日。いわゆるバレンタインデー・イブだ。大学は休講なのに、なぜか研究室にやってきた日苗乃が語りだしたのが、先ほどの『悪夢のバレンタインエピソード』、というわけだ。
「せんせいは、正夢になってほしい?」
「どうだろうな……」
なってほしいような気もしたが、リラにチョコレートをぶつけられるのは勘弁したい。
「なってほしくないなら、一緒にゆーえんち行こうよ」
「…………へ?」
唐突に、本当に唐突に――日苗乃は二枚のチケットを突き出した。
 実のところ、この子がこんな風に積極的に動くのは初めてだった。
 今まで、「~してもいい?」といちいち伺いを立ててから実行に移してばかりだった日苗乃が、ぼくを遊園地に誘ってくれた。しかもバレンタインデーに。
 やっべ、ちょっと嬉しいかも。
「え、っと……じゃあ、行こうか」
「けっていね! 約束だよ?」
そこまで聞いてから、もしかするとさっきの話はこの誘いを持ちかけるための壮大な冗談だったのかもしれない、と気づいた。全部、嘘だったのかもしれない。ぼくにイエスと言わせるための、小さな策略。
 だとすると――本当の策士はいったい、誰なのだろうか。
「……ま、いっか」
結果さえよければ、そこに至る経過なんてどうでもいいことだ。逆に言えば、結果が悪いのなら、そこに至る経緯もすべて無駄になる。わかりすぎるくらいにわかっている真理だった。
 次の日、遊園地でぼくらを尾行していたリラ(仮名)にチョコレートをぶつけられたぼくが生死の境をさまようことになったのは――まあ、言わなくてもいいことってやつだ。
 一つだけ言うなら……箱入りのチョコレートは意外と硬くて重量がある凶器だった。「人に投げつけないでください」という注意書きが表記されていないのが不思議なくらいだ。今後はそこらへん、ちゃんと書いておいてほしいものである。猫を電子レンジでチンする人間の話があるのだから、チョコレートで死ぬ男もいるかもしれない(猫を電子レンジでチン、というのはただの都市伝説で、実際に実行に移した人間はおそらくいないが)。そのときのために、自分の血で犯人の名前を書く練習でもしておくかな、とわりと本気で考える今日この頃なのだった。


080115

本編があまりに殺伐シリアス救いのない鬱話だったのでキャラクターだけ使い回して平和な話を書きたかった、というだけの話です。イエス!自己満足!!