世界、その狭すぎる電子音楽について
恋愛免許制度が執行されてから、三か月が経過した。
世界に、これといって変化は見られない。まあ、それは当然だ。恋愛したければ免許を取ればいいし、免許を取りたくなければ恋愛しなければいい。これまでも、車に乗りたい人間は自主的に免許を取っていたのだし、そのための勉学や実習を苦に思う人間はそもそもいなかった。
――だが、車の免許と恋愛免許には決定的に違う部分がある。
その決定的に違う部分、とやらに振り回されている人間が世界には数多く存在して、その中の一人は残念ながら、ぼくなのである。
かなしきかな、少なくともこの世界において、ぼくの恋は叶わない。ぼくが好きになった女の子は恋愛免許を持っていないからだ。おそらく、彼女は恋愛に興味がないのであろう。今後免許を取りそうな気配もまったくない。
ぼくは彼女の名前を知らない。彼女を初めて見たのは、ローカル線の電車の中だった。各駅に停車する列車は異常に空いていて、そのまま異界に線路がつながっても違和感がなさそうな空間だ。じっと微動だにせず前を見ながら、彼女は椅子の中央に座っていた。華奢な体に、透き通る妖精のような茶髪。薄い紺色のサロペットを着ていて、足には黒のニーソックス。耳には大型のヘッドフォンがついていて、まるでロボットの端子みたいだった。何を聞いているのかはわからなかった。そんな彼女に興味を持ってしまったのは、さて、どうしてだか自分でもわからない。最初に抱いたのは、そんな真顔で、ぴくりとも動かないままで、生きていける人間がいるのかあ、という意味のわからない感嘆だった。次に、あの子は何を聞いているのだろう、と思った。あの大きすぎるヘッドフォンは、彼女の鼓膜に何を送信しているのか、むしょうに知りたくなった。
後日、彼女を大学の講義で見かけたとき、ぼくは思わず立ちあがりそうになってしまった。彼女はやはり大型のヘッドフォンを首にかけていて、教室の真ん中あたりに大人しく座っていた。ぼくが彼女の存在を知らなかったのは、座っている位置があまりにも違ったからだった。ぼくは基本的に、ドアに一番近い最前列の位置でノートを取っている。まじめだからではなく、早く帰りたいからだ。最前列には先生に注目してもらいたいのか、自己アピールの激しそうな人間が多く鎮座している。また、最後列に座るやつはだいたいが喋りたいやつか、サボりたいやつ、目立ちたくないやつであるというのも確定事項で、ぼくは自分の中で、学生たちを「前の方に座りたいやつ」と「後ろの方に座りたいやつ」に分類していた。が、彼女はそのどちらでもなく、いつも真ん中あたりに座っていて、これはぼく的には完全にノーマーク、分類の外にある行動だった。それで、見逃していたのだ。
その日、友達に、彼女のことを聞いてまわった。ぼくの友達たちは彼女を知っていた。ああ、ヘッドフォン女だよな、と口をそろえて言う。ぼくが知らなかっただけで、彼女は学内では有名な存在だったようだ。ぼくの悪友たちによると、彼女は講義中以外はずっと、あのヘッドフォンをつけていて、友達はいない。誰も、彼女の名前は知らないが、ヘッドフォンをつけている女の子、というと「ああ、あの子ね」と思うのだそうだ。
ぼくは夢想する。
ヘッドフォンから流れる音楽が、鼓膜から電撃のようにびりびりと伝わって、彼女の感覚を震わせるのを。
彼女が目線一つ動かさずにそこに静止しているのは、その音楽のせいに違いない。
ぼくらは、「動いていること」を強制されている。一つのところに止まっていることはできない。止まっているつもりでも、よく見れば少しずつ移動している。でも、彼女はそうじゃない。どう見てもそこに止まっている。動かない。
彼女をその場に押さえつけているそれは、どんな魔法の音楽だろう。まるで画びょうで止められた絵画のように、微動だにしない少女の不思議を、ぼくは知りたい。だから夢想する。
普通にテレビから流れるような、ポピュラーな音楽ではないに違いない。そんな、ありきたりな音楽では絶対にない。洋楽だろうか、邦楽だろうか。テクノだろうか、ロックだろうか、フォークだろうか。もしかすると音楽ではなく、ラジオかもしれない。落語かもしれない。ただのノイズかもしれない。英語のCDかもしれない。ぼくは自分の持っている音を一つ一つ再生しながら、その曲があのヘッドフォンから流れている様子を想像して、あれでもない、これでもない、と考えつづけた。
さて、ある日、ぼくは彼女に話しかけてみた。英語の講義の前の、休み時間だった。ヘッドフォン少女はやっぱり教室の中央に座って、ヘッドフォンをつけて、黙していた。勇気を出して近づいてみる。ねえ、君、とぼくが話しかけると、彼女はヘッドフォンを外した。彼女を動かすことができた、という感動にぼくが震えているのもつかの間、彼女はこう言った。
「何か、ご用ですか」
そのときの気持ちはどう表現すればいいのかわからない。
ぼくは自分が感電死したのではないかと思った。ぼくの鼓膜が、震えすぎて悲鳴をあげた。
びりびり、びりびり、びりり。
鼓膜が破れたのではないかと錯覚する。
ああ、なんて電気的な声なんだ。まるでエレクトロ。色で表現するなら濃い黄色。スパークする。くどいくらいにラメをちりばめた輝きの黄色。そんな声が、地上に存在するなんて知らなかった。これは声じゃない、電気だ。ぼくを震わせるスタンガンだ。このまま、この電撃で殺されたってかまいやしない。その声を心臓にぶち込まれたいと思った。文字通りの電気ショック。そのまま蘇生しなくたっていい。この声のためなら死ねる。
ぼくは痙攣しそうな自分の筋肉を理性で抑え込んで、彼女に笑いかけた。
「ぼく、君が好きなんだ」
さらりと告白した。そう言わずにはいられなかった。あまりにも強い電撃が、ぼくの感情を抑え込むための理性すら抑えていた。後に残ったのは反射だけだ。死ぬ直前に四肢が小さく痙攣するのと同じように、ぼくは自分の気持ちを口に出した。パブロフの犬。ただ、条件に合わせてよだれを垂らす犬が、このときのぼくだった。
「わたし、免許、持っていないので」
彼女の言葉の内容が飲み込めなかったのは、ぼくの感情と理性が元に戻るまでにかなりの時間を要したからだったが、飲み込めた瞬間、また彼女の声が電撃となって感情と理性を滅茶苦茶にした。ぼくが立ったまま昏倒している間に、彼女はさっさとヘッドフォンを耳に戻していた。
ぼくがぼくを取り戻したのと、教室に外国人教師が入ってきたのはほぼ同時だった。
オーウ、グッアフタヌーンエブリワーン?ハウアウユー?……と、教師が陽気に問いかける。
いつもは黙っているぼくが、その日は声に出してこう言った。アイムファイン、センキュー。
センキュー、の「ユー」は教師ではなく、もちろん彼女に向けて。
彼女は何も言わず、ヘッドフォンをゆっくり外して、授業を聞き始めていた。
ぼくの心は晴れやかだった。
ぼくは電気ショックで興奮する変態ではないし、誰にでも気軽に告白できる色情狂でもない。どこにでもいる普通の大学生だ。でも、彼女の声はぼくのすべてを震わす不思議な魔力を持っていた。また、彼女が恋愛免許を持っていないということもぼくの精神を震わせた。そのポジション――恋愛なんて絶対に自分はしない、どんなことがあってもしない、だから免許なんか不要である――は、彼女とヘッドフォンとあのエレクトロな声にふさわしかった。そうだ、それでこそ彼女は彼女だし、ヘッドフォンはヘッドフォンだし、エレクトロはエレクトロだ。あまりにもしっくりと来すぎて、ぼくはエクスタシーすら感じそうになっていた。
そしてこの日以降、彼女の聞いている音楽の正体が気になって気になって、一日中そのことを考えるようになった。自分の持っているCDは全部聞いたが、それらしいものはなかった。ぼくは、レンタルCDショップにあるCDを片っ端から借りてくる。それを聞きながら、あのヘッドフォンと彼女を思うのが日課になった。学校から帰ったらまず、パソコンを起動してCDを入れる。そして、そのまま深夜まで音源を探しつづけた。バイト代はすべて、CDのレンタル料に消えていった。もしかするとCD化していない音源かもしれないので、ネットでアマチュアミュージシャンの音楽やラジオを聴くようにもなった。勉強もせず、友達とも遊ばず、ぼくはただ、学校に行って、CDを借りて、家で聞くだけの生活を続ける。不思議と充実した日々だった。想像の中の彼女はすごく崇高で、至上で、綺麗だった。彼女の放つ声はぴかぴかと光る。電極同士をつないだときに散る火花に似た声は、すでに無色透明ではなくなっていた。彼女の声は散る。彼女の声は光り、鼓膜を揺るがせ、ぼくを昏倒させ、それでもなお超然とそこに在る。美しさとはまさにこの声のことを言うのではないかとすら、思った。
彼女との恋愛の可能性が断たれたことで、ぼくは自分の彼女への気持ちを、切り替えたのかもしれない。
彼女と交わることよりも、彼女を想像することを選び、最終的には彼女を創造主にした。
名前も知らない、茶髪でサロペットでニーソックスでヘッドフォンでエレクトロな彼女は、ぼくの中で神になった。
ぼくの中の少女は、口から電撃を放ち、ぼくをその電撃でめった打ちにする。ぼくは痙攣しながら思う。幸せだ。幸せだ。これこそが幸せだ。ぼくが今まで幸せだと思っていたものは幸せなんかじゃなく、ただの電気信号だ。この電撃こそが、ぼくのニューロンに伝わり、その中に巧妙に隠れたぼくへとつながる本当の幸福なのだ。
妄想と過ごす日々は楽しかったが、バイト代をなくしたぼくは、徐々に空腹に蝕まれる。身体が動かなくなっても、ぼくは音楽を探しつづける。いつのまにか、そんなぼくの耳には常に大型のヘッドフォンがついているようになっている。家の中で、パソコンやコンポにつないだままの、ヘッドフォン。それをつけたままで、寝るときも食べるときも、食事の支度をするときも、何もしないときも、ぼくはひたすら何かを聞いている。学校へ行くのも、風呂に入るのも、とっくにやめていた。部屋の中に大量に積まれたレンタルCDは、かなり前に返却期限がすぎている。ぼくはもう動けなくなっていた。冷蔵庫の中身は空になった。米びつも空っぽ。指先を動かすのすら、億劫だった。部屋に寝たまま、ぼくはパソコンからエンドレスで流れる音楽の中に彼女を見ていた。オレンジ色の世界、電気の世界、人間の世界ではない別の世界にいる、そんな彼女がこの曲を聴いているかもしれない、と想像するだけで生きていけるような気がした。実際、ぼくはそのまま生きていて、何も食べなくなってから一週間が経過していた。意識は消え入りそうだったし、空腹は苦痛だった。それでも、ぼくはヘッドフォンを耳から外すことができない。外したら、想像の中にいる、崇高な彼女の姿が消えてしまいそうで、怖くて怖くて、ぼくは震えあがってしまう。無理だ、と思う。
身体を横たえたまま、延々と音楽を聴きつづけて、どれくらいの時が経っただろう。
ぼくはようやく、気付いた。ぼくが止まっていることに。
そう、ヘッドフォンをつけたまま、動くということから解放されたぼくは、まさしく彼女と同じ境地にいた。
身体を静止させ、目線すら動かすことなく、それでもなお生きるぼくは、彼女と同類だ。
ぼくは彼女で、彼女はぼくだ。つまり、今のぼくの声はエレクトロ。無色透明ではなく、空気を激しい黄色に染める電撃だろう。試しにぼくは、あああああ、と言う。「AAAAA」と、不思議の国にいる芋虫の出す煙みたいに、黄色い電気が空間に漂った。感動して、涙が出そうだった。彼女はここにいる。ぼくと恋愛することのできなかった彼女は、ようやくぼくのものになった。
ぼくがそう確信した、まさにその瞬間。ぼくの前に彼女が立っていた。錯覚かと思ったがそうではない。彼女は同類の電波を感じてここに引き寄せられ、ぼくに会いに来たのだ。間違いない。
横たわったぼくをいたわるように、ヘッドフォン少女はぼくの前に跪いた。そのまま、ぼくのヘッドフォンをその手で外し、自分のヘッドフォンも、外した。耳に常に流れ込んでいた音が、消える。世界が静かになる。何もない世界になる。ぼくはぼんやりと、何もない空間に跪いている彼女を見ている。
彼女は無表情のまま、自分が今までつけていたヘッドフォンを、ぼくの耳に装着した。
ありがたいなあ、と思った。これでようやく、彼女が何を聞いているのか知ることができる。
感動に打ち震えるぼくの鼓膜は、一ミリも震えなかった。
彼女のヘッドフォンは無音で、音楽も、ラジオも、ノイズもない。ただの飾りだったのだ。そう気付いてなお、ぼくの感動は消えなかった。むしろ、それでこそ彼女ではないかとすら思った。ぼくの中の彼女は、こんな些細な事実で消えたりはしない。
「これで、満足?」という彼女の電撃は、餓死寸前のぼくには強すぎる刺激だった。
満足だ。もう死んでもいいね、と答える前に、ぼくの全身が痙攣して、昏倒。反射。また痙攣。
ぼくは暗闇の中に叩きこまれて、声を出さずに光を見ている。
ぴかぴか光る電気が、空気の間を通り抜けていく。それを見ながら、ああ、綺麗だなあ、と思った。
綺麗な電気の中で、意識が薄れる。そのとき、彼女が微笑んだ幻を見た。それはきっとただの幻だろう。だって、彼女を動かすことなんて、世界中の誰にも、できっこないのだから。
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