花瓶、その腐らない存在性について
自分は他人のお情けによって生きている。
そのことはなんとなくわかっていた。
誰も、ぼくのことなんて見ちゃいない。付き合ってくれているだけ。
友達、というのはあくまで体面上の名前である。
恋人、というのもきっと、便宜上の名前にすぎない。
友達という名前を付けられた何でもない他人たちと、うわべだけの交流をするのが人生で。
恋人、という名前を付けられた何でもない他人と、うわべだけのセックスをするのも、おそらく人生で。
そういう風に考えるとき、じゃあ、ぼくって何だろう、と思う。袋小路に、思考が追い込まれてしまう。ぼくは無価値だ。どこにも価値がない。普通の人間が宝石だとすると、ぼくは光らない石ころだ。
そんなことを考えていると気が滅入る。だから、そのことは忘れようと考えた。
ぼくはしばらく恋人と暮らして、幸せだった。それすらも便宜上の幸せだったのは間違いない。でも、それは幸せだったのだ。
――彼女がぼくに「そのこと」を告げるまでは。
「わたし、免許を停止させてもらおうと思うの」
何の脈絡もなく、彼女がそう申告した。
別れたい、でもなく、あなたが嫌い、でもなく、免許を停止させたい、なんて遠回しな絶対否定を行った彼女は卑怯だと、ぼくは憤る。
「なんでだよ。免許停止したら、もう、誰とも恋愛できない。結婚もできない。それでいいのか?」
「ええ、もういいの。わたしの人生に、もう恋愛はいらない」
あなたと付き合ってわかったの、と彼女は言った。
「何がわかったんだ」
「恋の無意味さ。人の無意味さ。男女の無意味さ。愛してる、なんていくらでも言える言葉で、互いを騙さなければいけない面倒さ。笑顔で場の空気をはぐらかして、全部ごまかそうとする傲慢さ。あなたと生きてるとね、なんか、虚しくなる。男なんてこんなものか、女なんてこんなものか、ってね」
一気に告げて、彼女は唇をゆがめる。
「それで決めたの。もう恋なんかしない」
ぼくは動転していた。ぼくのような、変な人間を受け容れてくれるのは彼女くらいのものだった。なのに、彼女はぼくの目の前から消えようとしている。恋なんかしたくないと言う。ぼくの唯一の恋を、壊そうとしている。
「そんな」
絶望した。目の前が真っ暗になった。だって、こんなゴミみたいなぼくを好きになってくれる人なんて、他にいるわけがないのだ。それなのに。それなのに……
彼女は部屋から去ろうとしている。もう二度とこの場所には戻ってこないに違いない。彼女は玄関に活けてある花を見ていた。花はグロテスクなほど咲き誇っていて、腐るように枯れていく途中だ。実際、花弁が何枚か下に落ちて腐っている。ぼくは花をじっと見ている彼女の視線を追い、そしてそこにあるものの正体に気付く。
その花を活けてある、大きめの花瓶。花瓶というものを考えた人間は偉大である。だって、花は腐っても花瓶は腐らない。最高の文化と最高の皮肉に感嘆して、ぼくは立ち上がる。彼女はぼくに背を向け、ドアに手をかけようとしていた。
さて、そこから先のことはもう記す必要性を感じない。
少なくとも次の瞬間、ぼくは解放されたはずだった。
彼女はうるさい。一日に何度も何度も何度も声を発する。声にならない金切り声のような声を。
もう精神が滅入ってしまいそうなくらいだ。
ぼくは黙しながらそれを聞いている。
ひたすら、部屋の中でじっとしている。
気付いている事実に背を向けて、気付かないふりをしている。
彼女が叫ぶ。
彼女の声にならない声は、いつしかぼくの心の声へと転換する。
ぼくではないぼくの声が言う。聞きたくないのに、聞こえてしまう。
「つきあってくれていただけなんだよ。誰もが憐れみと同情を向けていた。それだけなんだ、絶望したかい?」
くすくすと笑いが聞こえて、ぼくの肩が反応する。誰かが笑っている。彼女じゃないし、ぼくでもない。この部屋にはぼくたちしかいないのに、ぼくたちではない誰かがぼくをバカにして笑っている。許せないと思うよりも先に、諦念を感じた。そう、仕方ないのだ。ぼくには価値がない。笑われるくらいしか、能がない。
「ああ、ああ、ああ。」
ぼくは震えながら応じる。
そうさ、知ってた。
知ってた。
知ることを、知覚することを拒んでいただけ。
拒み続けていたけどやっぱり無理なんだ、拒むことはできないんだ。
そしてそれでもぼくは誰も彼もを愛さずにはいられないんだ。
愛されないからこそ焦がれずにいられない。
震えが止まらなくなっても愛さずにはいられず。
震え続け、目眩の中に叩きこまれ、昏倒してもまだ、ぼくは誰かを求めて手をあげる。
肉が腐る匂いを嗅ぎながら思う。
この手の中に誰も彼もと同じ空気をつかむことができる。
その事実がたぶんぼくにとって、唯一の幸福なんです。
だから、彼女の肉塊とこのまま生きていくぼくを許してください。
彼女を花瓶で殴り殺したのはぼくの肉体です。
彼女から恋愛の意思と楽しみを奪ったのはぼくの不甲斐なさです。
どんよりと曇る雨の日の灰色の空のように、彼女を空虚にしたのはぼくの空虚さです。
彼女が死してなお声のない声で叫ぶのはきっと、そんなぼくへの罰でしょう。
ぼくは空虚です。
光らない石ころです。
でもぼくは生きたい。信じたい。愛したい。
無理だとわかっていても、ぼくは――
ポケットからプラカードを取り出す。カードには簡素な文字で「恋愛免許証」と書かれている。このカードを破壊してしまえば、もうぼくは誰とも恋をしなくて済む。悲しい思いをしなくて済む。わずらわしい関係に縛られずに済む。もう、壊してしまおうか。ぼくのなかのぼくが問いかけるが、ぼくはプラカードを破壊しない。
ぼくはまだ、恋したい。
ぼくはまだ――生きたい。
腐臭のする部屋の中。
割れずに残っている花瓶を眺めながら、ぼくはこうしてまだ、生きている。
100211