ミュージック、その消えそうな魂の叫びについて
あたしには、家族にも言えない秘密がある。
それは、恋のことだ。
あたしは学校で彼氏をとっかえひっかえしていると言う印象をいろんな人に持たれているのだけれど、実はそんなことはない。彼氏っぽく見えるのは全員、ただの男友達だ。みんな、ちゃんとそこらへんは理解してくれる人ばかり。たまに告白されることもあるけど、あたしはそれを絶対に受け入れない。あたしにはもう、心に決めた人がいるから。
その人の名前はラッド。外国人みたいな名前だけど、れっきとした日本人。たぶん、本名ではない。本名は知らない。
ラッドはロックミュージシャンだ。ラッドのバンドはインディーズレーベルから曲を出している。オリコンチャートとかに入るほど売れてはいない、マイナーなバンド。でも、あたしにとっては運命のバンドだった。初めてラッドの歌声を聞いたとき、あたしは鼓膜から脳を揺さぶられた気がした。歌詞も一つ一つが心に突き刺さるようで、もう、震えるしかなかった。
あたしが今生きているのも、受験に合格して大学に入ったのも、家族と温和に暮らせるのも、ラッドのおかげだと思っている。あたしの中では、すべての幸せがラッドに繋がっている。ラッドの存在がなかったら、あたしの存在もないって思うくらい。ラッドの音楽は、あたしにとって何よりも大きな救済だった。別に人生に絶望していたわけでも、とりたてて不幸なわけでもなかった。ただ、ラッドに出会った瞬間、それまでの人生は不幸だったのだと思った。ラッドはあたしの不幸な人生を変えるために現れた。救世主だ。
ラッドを知らないまま生きていたなんて、最大級の不幸だ。今でも、その考えは変わらない。
まるで新興宗教に入った人のようだね、とはよく言われる。実際、人を愛するのも神を愛するのも、あんまり変わらないと思う。高いツボを買わされても、その人が幸せなら別にいいんじゃないかな。彼氏とのデートにお金を使うのと、ラッドのCDを買うのと、神様のためにツボを買うのは、全部一緒に見える。あたしにとっては、ラッドのCDを買って、ライブに行くのが一番幸せっていうだけ。ツボを買って幸せが買えるなら、どんどん買えばいい。彼氏に裏切られるのも神様に裏切られるのも、ダメージは一緒だ。ラッドはあたしを裏切ったりはしないから、結局のところはラッドが最高、っていう結論が出るけどね。
ラッドがあたしを裏切らないように、あたしもラッドを裏切らない。
歌手のことを好きなのは恋とは違う、ただの憧れだからいつか覚める、とか言う人がいるけど、絶対にそんなことはない。絶対、絶対、ラッドは運命の人だ。この思いは、いつか覚める気持ちなんかじゃない。あたしは、ラッドを愛してる。
ラッドを好きだった気持ちが一気に加速したのは、数か月前のライブのときだった。
あたしはあまりにもライブが楽しみすぎて、朝から会場の周りをうろうろしていた。コンビニとか、本屋とかに行った後、まだ、開場には時間があったから、CDショップに行った。もちろん、売り場に行って、ラッドのCDを眺めた。他に眺めるものなんてない。
そのとき、どこかで見たような髪型の男の人が、こちらへ寄ってきた。
その人の顔を見て、あたしはぽかんとしてしまった。さぞかし間抜けな顔だっただろう。
ラッドだった。
ラッドは、ライブのときも取材のときも、いつも大きなサングラスをしてる。絶対に素顔を晒さないのが、彼のポリシーだ。サングラスはとても大きくて頑丈で、どの角度から見ても、素顔は見えない。うっかり外れてしまうとか言うこともない。彼の本当の顔を、ファンは誰も知らない。ラッドはいわば、覆面ミュージシャンなのだった。
けれど――CDショップで出会ったラッドは、サングラスをしていなかった。
その瞳の印象を、どのように語ればいいだろう――攻撃的な印象の歌声に反して、その目はとても穏やかだった。すべてを見つめる神様みたいに達観していて、でも、冷たくない。羊のような、って表現すると弱々しすぎるし、ライオンのような、って表現だと雄々しすぎる。間をとって、まるで草食のライオンのような……と表現するのが一番しっくりくる気がした。あたしが思い描いていた通りのラッドのようでもあり、全然違うっていう感じもする。
「ラッド……?」
あたしの声を聞いて、ラッドが初めてこちらを見た。あ、と彼が声を出した。まさか、こんな場所でファンに出会うとは思わなかったのだろう。最初は、「しくじったな」というような気まずそうな顔をしていた。でも、しばらく経ってから彼はにっこり笑った。ライブで見る笑顔とは全然違う、穏やかで優しそうな表情。
「秘密にしておいてくれる?」
人さし指を自分の唇に添えて、ラッドがそう言った。あたしが頷くと、ラッドは「これからも応援よろしく」とだけ言って、去って行った。「俺のファンなの?」とか、余計な言葉は一切なかった。そこがとてもラッドらしかった。ライブのときのラッドはいつも通りのラッドだったけれど、あたしの中のラッドは店で会ったラッドの顔にすり替わっていた。
あの顔を知っているのは、あたしだけなんだ。
あたしだけのラッド。肉を食べることを拒むライオンのようなラッドを、世界中であたししか知らない。
そう思うと、自分がとても特別な存在になれた気がした。
恋愛免許制度が執行されたのは、それから一年後。
その年は、恋愛免許なんてものはどうでもいいんじゃないか、と思うくらいに衝撃的な出来事が立て続けに起こった。
まず、ファンクラブの会報に載ったラッドの言葉が始まりだった。
ファンクラブはあくまでファンが立ち上げたもので、ラッドやメンバーがそこに寄稿することは、それまで一回もなかった。
ラッドの笑顔の写真とともに載せられたその記事には、ラッドがある女性と結婚するということが書かれていた。それによってバンドが解散するわけでもなく、ただ結婚する、とだけ書かれた記事。ファンたちは嘆いたり、祝福したり、忙しいみたいだった。あたしはと言えば、特に何の感慨もわかなかった。ああ、もうあの素顔を知っているのはあたしだけではなくなったのだ――そんな風に、ぼんやり思った。
恋愛免許制度が始まったのは、ちょうどその数日後だった。
恋愛に免許が必要になるという不可思議な制度。でも、あたしはその免許制度自体より、自分の恋愛の権利の証が形になって目の前に現れるという幻想に焦がれ、そしてひとつ、やるべきことを思いついた。
『それ』は本当にあたしがやるべきことなのか、一人で考えても、よくわからなかった。でも友達には相談しにくい――そう思って、あたしは久々に兄貴のところに行くことにした。
兄は、元あたしのヒーローで、今はもう普通の、ただの兄だ。
なぜヒーローなのかと言えば、小学生のとき、クラスメイトにいじめられているあたしを助けてくれたから。そのときの貯金がまだ残ってる、みたいな感じで、まだあたしは兄貴を慕ってる。いつも部屋で音楽を聴いてばっかりいる、どうしようもないダメ兄貴だけど、悪い人間ではない。
「にーちゃんっ! 入るよ!」
ノックせずに兄の部屋の扉を開けると、彼は見られてはいけない行為の真っ最中だった……などということはなく、兄貴は今日もつまらなさげに音楽を聴いている。
「なんだよ、詩織」
ヘッドフォンを耳から外した兄貴は、椅子をこちらに向けてそう言った。
「ねえ、にーちゃんは恋愛免許、取るの?」
「取らねえよ」
少し怒ったみたいに兄貴が答える。どうしてそこで怒るんだか、よくわからない。機嫌、悪いのかなあ。
兄貴の怒りはとりあえず無視して、あたしは彼にこう話しかける。
「あたしはね、取ろうか迷ってる」
「なんで?」
「好きな人がいるから」
あたしは兄貴の問いかけに堂々とそう答え、兄貴は気圧されたように黙った。
「……好きな奴がいるなら、取ればいい。簡単なことだろ」
しばらくして兄貴はぶっきらぼうにそう言った。その言葉には、あたしの背中をゆったり静かに押してくれてる、みたいな確かな信頼感があって、「やっぱり、この人はあたしの元ヒーローだなあ」って思う。いつだって、あたしを後ろから支えててくれる。この兄は、そういう兄なのだ。何も言わなくても、わかる。兄は、小学校のとき、あたしをいじめっ子から助けてくれたときから、ぜんぜん変わっちゃいない。その、変化してない感じに、あたしはとても安心する。
「そうだよね。ありがと、兄貴。」
あたしは兄貴の言葉で、ある決心をした。
あたしはラッドを愛してる。ラッドはあたしのことなんか覚えてないかもしれないけど、ラッドの音楽で救われたあたしは、一生ラッドを愛し続ける。ラッドが結婚しても、子供が五人できても、バンドを解散して幸せな家庭を築いても、絶対、あたしは変わらない。兄貴があたしを支えてくれているのと同じように、あたしはラッドをこの愛で支えてみたい。支えきれなくて転倒しても、誰もあたしを支えてくれなくなっても、あたしはラッドが世界で一番好きだから。
そんなことを考えながら、あたしは免許を取った。車の免許を取るのと、要領は一緒だった。めんどくさかったけど、教習所で一緒だった人は、総じてすがすがしい顔をしていた。みんな、きっと誰かを愛するのが好きだから、教習所に来るのだなあ。恋に生きる人間は、みんな、胸を張って生きている。少し、誇らしい気持ちになった。
免許証の表面はつるつるしていて、特別なアイテムみたいに光っていた。このプラスティックのカード一枚に、自分の未来が詰まってる。すごいなあ、と思った。あたしの未来、権利、自由、可能性、そういういろんなものが、ここに全部そろってるんだ。そして、あたしはその未来も権利も自由も可能性も、全部投げ捨てようとしてる。ネガティブな気持ちじゃなくて、あくまでも、ポジティブな愛のために。
涙が一筋、頬を伝って落ちた。それは免許の上を滑るように流れて、地面に落ちていく。あたしの未来。あたしの権利。あたしの可能性。あたしの全部はラッドのためにある。今まで、ラッドには感謝してもしつくせないくらいに救われてきた。ラッドのおかげで、今のあたしがある。学校が楽しいのも、兄貴が優しい元ヒーローなのも、人生にこれといって苦労がないのも、全部ラッドのおかげ。ラッドがいつでもCDの中やライブ会場で歌いつづけてくれたから、あたしは何事もなく、生きつづけられた。
この感謝をこういう方法で表現するのは、愛には反するかもしれない。少し、というか、かなり迷った。でも、こうすることくらいしか、あたしの大きすぎる感謝をラッドに伝える方法が見つからない。他のどんな手段も、あたしの気持ちをラッドに伝えられない。本当なら魂をあげたいけど、魂は手ではつかめないからあげられない。
あたしは、プラカードを白い紙で丁寧に覆った。それを、簡素な茶色い封筒に入れる。あらかじめ書いた手紙と一緒に。それをポストに投函するとき、あたしはラッドの目を思い浮かべていた。
ラッド。
あたしはやっぱり、どんな形でもいいからあなたを愛していたいと思っているよ。
あなたに愛されるかどうかなんて関係ないし、あなたがどう思うかすら、関係ないのかもしれない。
あたしはあなたが好き。
それだけが、ゆるがない事実で、真実だよ。
――ラッドが自殺したのは、それから数日後のこと。
目まぐるしく変わる世界の情景に、あたしは呆然とした。
ラッドがいない。
ラッドは、もうどこにもいない。
悲しいとは思わなかった。そんな自分が、不思議だった。
ただ、ラッドが死んだのは自分のせいじゃないかって、それだけが気がかりだった。
あたしが自分の免許なんか送ったりしたから……それで、ラッドは死んじゃったのかな。
ラッドが死んだ理由は、発表されなかった。
普段から現実離れした言動が多かったから、ファンたちは悲しみながらも、彼の死を疑ってはいなかった。
あたしだけ。あたしだけが、あの免許のことを知ってる。
あたしが殺したのかなあ。
ラッドは、あたしのせいで死んじゃったのかなあ。
そう思うと、思考がガムテープでがんじがらめにされたみたいに動かなくなって、何も考えられなくなった。
ラッドにあたしの気持ちが届いたのなら、それは嬉しいけど。
だからって死んじゃうなんて、あんまりだよ。
ラッドはどうして死んだのか、どうしてもそれが知りたい、とあたしは思った。
でももちろん知る方法も権利もないから、あたしはただ部屋でぼんやりしているしかなかった。
そんな感じでぐるぐる悩みつづけているあたしのところに、ある日、手紙が届いた。
手紙はどこにでもある白い封筒に入っていて、差出人は知らない人の名前だった。
でも、それは知らない人なんかではなかった――あたしは手紙を開けて、その内容を読んで、世界がひっくり返るくらいびっくりした。その場に泣き崩れた。涙が止まらなかった。あたしの泣き声に驚いて家族が玄関まで飛んできたけど、あたしの涙は止まらずに流れつづけた。いつまでもいつまでも、あたしはそこで泣いていた。気付いたら、兄貴が背中をさすってくれていた。両親も、心配そうにあたしを見てた。ラッドがいない世界で、あたしは一人っきりじゃなかった。それすらもラッドのおかげだと思うあたしは、親不孝で兄不孝なのかもしれない。でも、それでもいい。あたしはこれからも家族と一緒に生きていける。ラッドの分まで、あたしが生きてあげる。今、そう決めたから――空の上からちゃんと見てて、ラッド。
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手紙では、はじめまして。ぼくは手紙をもらうことはあっても、返事を書いたことがない。だから、これはぼくが初めて書いた手紙だということになるね。もしかしたら作法が間違っているかもしれないけど、許してほしい。
ぼくは死ぬことにしました。たぶん、そんな風に言っても、誰もびっくりしないんだろうな。ぼくって、いつ死んでもおかしくなさそうだってよく言われるんだ。刹那的って言えばかっこいいのかもしれないけど、いつ死んでもおかしくないなんて、あんまりいい言葉の印象ではないね。ぼく的には、『いつ生きてもおかしくない』って言う方がいいな。そんなことを言ったら、『ラッド』のイメージはぶち壊しかな。
ぼくは手紙を書く相手に君を選んだけど、実はこの選出には意味なんかないんだ……君のことが好きなわけでもなくて、気になるわけでもなくて。ただ、死ぬ前に誰かに何か書いておきたいなって思ったときに、君が送ってきた免許証の住所がたまたま目に入ってきた。それだけだったりする。まあ、このタイミングでぼくが死んだら、君が気に病むかもしれない、っていうのも理由の一つではある。あと、実はぼくって友達少ないから、君くらいしかこういう手紙を送れる相手、いなかったんだ。迷惑かもしれないけど、書いてしまったものは仕方がないから、謝らないでおくよ。いきなり免許を送ってくる、破天荒な君のことだ。いきなり手紙を送っても、許してくれるだろう?
ちなみに、君の免許証はちゃんと責任をもって、破棄しておく。
このことで君が面倒に巻き込まれることは、おそらくないと思います。
ぼくは死ぬ。結婚発表したばっかりなのに、って言われそうだけど、結婚なんてしたくない。正直、数ヶ月前から、ぼくは死ぬことしか考えてないんだ。どうにもむなしくて、芥川風に言うなら「ぼんやりとした不安」に付きまとわれてる。すべてがどうでもよかった。そんなときに結婚しようって言われて、ぼくは適当に頷いてしまったんだ。相手には悪いけど、ぼくは結婚する自分なんて想像できないし、それよりも死ぬ自分の方がイメージできてしまった。だから、たぶん、急に心変わりしない限り、ぼくは死ぬだろう。もし死なないで結婚してしまっても、君以外には笑われて終わるだろう。そうなったら、君も、この手紙は悪い冗談だと思って忘れてくれればいい。
死ぬ理由について、長々とは書かない。そういうのを長々と書いても、君は『ラッド』じゃないぼくのことなんて知らないだろうし、おもしろくないからね。他人の死ぬ理由なんて、どうだっていいだろう。
ぼく自身はともかく、『ラッド』をやってるときのぼくはとても充実していた。ライブのときも、楽しかった。歌っている間は、不安のことも死にたいことも、忘れられた。ずっと歌っていられればよかったのだけれど――そんなの、今言っても仕方がないよね。作家が小説だけ書いて生きていけるわけはないし、歌手は歌うだけでは生きていけない。世の中にはしがらみがあるから、どうしてもそちらに囚われてしまう。仕方がないことだ。
免許証が送られてきたときは気付かなかったんだけど、君はもしかしたら、ライブの日にCDショップで会った子かな。顔立ちが、なんとなく似ているような気がする。間違っていたら、ごめん。あの日は、うっかり素顔で出歩いて、ファンに会ってしまったってことで、マネージャーにひどく怒られた。あの日以来、ぼくはサングラスをしたまま外出しなくてはならなくなって、ちょっとだけ不便だったよ。
でも、君はあのことを誰にも言っていないようで、マネージャーもぼくも安心している。強く口止めしたわけでもないのに、黙っていてくれてありがとう。素顔を見られたら、幻滅されて、もうライブに来てくれなくなるかも……ってずっと不安に思ってたんだけど、君はライブにちゃんと来てくれて、今までファンをやめないでいてくれてる。それが、ぼくにとっては嬉しいことだった。『ラッド』じゃなくて、本当のぼくを見てくれている人がいるみたいで、心強かった……というのは、本心ではあるけど、少しおかしいね。君は、『ラッド』じゃないぼくのことなんて、知らないのにね。
ぼくは、ぼくを見てほしかった。人気者の『ラッド』じゃなくて、サングラスを外したぼくを。
誰もぼくのことを気にかけてなくて、バンドをやめたら独りぼっちになってしまう、そんな気がした。
ぼくはいつだって一人で、誰にも馴染めない。
恋愛免許は持ってるけど、持ってるだけで、存在の価値がない……そんな風に思う。
でも、ぼくの顔を見てもファンでいてくれた君の存在は、ちょっとだけぼくに勇気をくれた。
ぼくは死んでしまうかもしれないけど、それは君のせいなんかではない。
むしろ、ぼくが生きているのは君のおかげかも、しれない。
それだけ、伝えておきたかった。
これ以上書いていると余計なことまで書いてしまいそうだから、これで終わりにします。
さようなら。また、ライブで会うことがあったら、そのときは『ラッド』として、よろしく。
+++++
「にーちゃん」
「なんだよ」
泣き終わったあたしは兄貴の部屋に来た。なんとなく、一人で部屋にはいづらかった。
「にーちゃんは、音楽好きだよね」
「好きだな。他に趣味、ねーし」
兄貴は無愛想にうつむいたまま答えた。
「あたしもさ、音楽が好きなんだ」
……ラッド限定で、だけど。心の中でそう付け加えたあたしは、兄貴に向かってにっこり笑ってみせた。
「そうか」
兄貴が、視線を上げた。あたしはふと、兄貴の後ろにある棚を見た。洋楽、邦楽、サウンドトラック、クラシック――いろんなCDが詰め込まれている。きっと、有名なものばかりなんだろうな……ってずっと思ってたけど、そのとき、あたしは、信じられないものを見た。
「ちょっと、にーちゃん。これ……」
と、あたしは兄貴の棚のCDを引っ張り出す。
「おい、勝手に出すな」
抗議を無視して、あたしは前のめりになって彼に問いかける。
「ねえ、このCDどうしたの。この歌手、好きなの?」
「ああ、好きだ。若い女の子に人気みたいだから、あんまり表だって好きとは言わねえけどな」
兄貴がそう答えるのを、あたしはどこか上の空で聞いていた。
そのCDは、ラッドのバンドのファーストアルバム。
かつて、あたしの運命を決めた、アルバムだった。
「あのさ」
「何?」
あたしは、胸を張ってこう言った。
「あたしもこのアルバム、好き」
「そうか」
兄貴はまんざらでもない様子で頷いて、そのCDをコンポにセットした。ラッドの声が流れ出す。世の中を拒否しているような歌詞なのに、どうしてだろう、その声は世界にじんわりと溶けていく。世界は、どれだけ音楽を流されても、飽和しないで受け容れてくれる。そんな世界はおそらく優しいのだと、あたしは思う。世界は黙ってるから、気持ちまではわかんないけど、少なくとも人間を拒絶したりしない。人間は人間を拒絶するけど、世界は、誰でも許してくれる。
「――いい声だな」
兄貴がそう言って少し笑う。
あたしは、兄貴に微笑み返しながら、ラッドに向かってこう叫んだ。もちろん、心の中で。
ラッド。あなたが思っているよりずっと、あなたの音楽はみんなに届いてる。
誰も見ていなくなんかない。
あなたの素顔を知ってるあたしが言うんだから、間違いない。
ラッドの声は、こうしてCDに残って、生きつづけているよ。
それは、とてもすごいことだと、あたしは思う。
あたしは、そんなラッドを心から愛している自分を、誇りに思います。
いつまでもいつまでも、ラッドのことを愛してる。
ラッドが嫌だって言ったって、あたしだけは、あなたを愛するのを、やめない。
100527
詩織さんに関する補完がしたかったので書いた話。
リア充っぽさというかスイーツっぽさ、みたいなものを出したかった文体。こういうの難しい。
結果的に、『音楽』というものにかかわりの深いシリーズになりつつあります。あんまり構成とか考えてないので偶然ですが。