第一部 スタン――菊本伴 わたしは、他人に興味を持ったことが一度もないというかなり面白くない人間だった。興味の持ち方がわからなかったのだ。逆上がりのできない子供のように、やり方自体が不明でどうにもならないという状態だった。教えてもらったからできるわけでもない。努力さえすれば習得できるのだろうが、わたしは最初から努力することを放棄していた。だから、菊本伴に会うまでわたしは自分以外の誰にも興味を持たなかった。ばあさんやらひいじいさんやらが死んでも葬式に行っても死体を見ても何とも思わなかった。能面のような表情のわたしを親戚は気味の悪い子供だと噂した。虫や小動物の死骸を見ても顔色一つ変えないわたしは、小学校入学当初女子たちにいじめられた。それでもわたしは自分が見下されているという事実に憤っただけで、それによって友達がいなくて寂しいとか、いじめられて哀しいとかいうまっとうな感情を持つことがなかった。 小学四年生になり、菊本伴のいるこの小学校に転校してきたわたしは、教室に入った途端に伴の洗礼を受けた。これが強烈だった。 「ベル」 黒板に書かれたわたしの名前を見て、伴が死刑宣告のようにそう告げたのだ。伴は小学生の少女に相応しくない、死ぬ寸前の老人みたいな目をして、一番後ろの真ん中の席に座っていた。長くて黒い髪は魔女のようだった。 ざわめきが起こった。わたしは大いに戸惑う。なんだよベルって。つうかこいつ何者だよ。意味わかんないし。 後で聞いた話だが、伴はその日、一ヶ月ぶりに言葉を発したのだそうだ。一ヶ月間、全く学校では何も話そうとしなかった伴は、全ての会話を筆談で済ませていたらしい。わざとしゃべらなかったのか本当に話せなかったのかは知らないが、その伴が、わたしの顔と名前を見ただけでしゃべった、という事実がこのとき教室――担任の教師も含めて――を震撼させたのだ。 「あの、あんたさ」 初対面で人を「あんた」扱いしてしまうわたしもどうかと思うのだが、わたしはそう伴に話しかけた。案の定、 「菊本伴」 という明瞭で簡潔な返答が返ってくる。あんたとか呼ぶんじゃねえよ。そういう固い意志がびしびしと伝わる。痛いくらいに。いやむしろ、本当に痛い気すらする。教室の中が更にざわめいたが、「うるさいんだけど」という伴の一声で静まった。わたしはこのクラスにおける伴の位置づけを瞬時に悟る。こいつは、ボスだ。逆らうと何が起こるかわからないタイプの、危険な独裁者だ、と。 わたしは慎重に言葉を選ぶことを誓い、再び声をかけることにする。教室は怖いくらいに静まっている。教師も伴には逆らわないらしく、教壇に立つわたしの横で固まっていた。 「菊本さん」 「スタン」 「は?」 こいつは日本語を解しているのか? 何故返答が全て一単語なのだ。つうかスタンってなんだよ。わたしは疑問符の多さに混乱した。伴は面倒くさそうにため息をついてから、 「わたしはスタン。みんなそう呼んでるの」 それは、そう呼びなさい、という命令の言葉だった。今度は、わたしがため息をつく。 「スタン。『ベル』ってなんなの」 「名前」 「名前? 誰の」 「あなたの」 呆れ果てた表情で彼女は答えた。当たり前じゃない、そんなことは、と云わんばかりに。 わたしは「なんなんだよそれ」ととうとう毒づいた。意味がわからなさすぎる。 「あなたは今日からベル。わたしがスタンであるのと同じに」 今までの伴の台詞の中で、一番長いのがそれだった。それきり彼女は何も云わなかった。彼女にとってはそれが万全な説明のつもりだったのだろうが、わたしは腑に落ちなかった。もう座りなさい。授業の時間ですよ、という担任の発言によって、わたしはしぶしぶ座った。漫画の世界と違って、わたしの席が伴の隣であったりはしなかった。わたしの席は窓際の前から三番目という、奇抜でわけのわからない出来事には全くそぐわない中途半端な場所だった。 「畜生」 授業開始の合図と同時に、わたしはそう呟いた。これからとんでもないことが起こるのだろう、という予感と共に。 「きみ、すごいんだねえ」 休み時間に隣の席の男子が話しかけてきた。真面目そうで、眼鏡をかけてて、ちょっとうざい。何がだよメガネ、とぶっきらぼうに返すと、めがねじゃないよ斉藤だよと彼は云った。いや、メガネだろ。 「スタンと対等に渡りあっていたじゃないか。僕にはとてもできないよ。恐れ多くてね」 メガネの斉藤は照れくさそうに笑った。 「何なんだよスタンって。なんか無断で命名されちまうし、意味わかんねえよ」 わたしはそう愚痴った。斉藤は少し声のトーンを落とし、わたしの方へ顔を寄せ、 「彼女はこのクラスの王者なのさ。スタンっていうのは、今は彼女の名前だよ。その王者に、初対面で新たに『名前』を頂戴したってことは、君はかなり幸運だと思うよ、ベル」 「てめえまでベルとか云ってんじゃねえよ」 「だって、スタンが決めたことは絶対だからね。君はもう、このクラスの中で、本名で呼ばれること、ないと思うよ」 「は?」 何なんだよ、この支配体制。ここはナチスドイツなのか。わたしには本当の名前で呼ばれる権利すらないのか。 「ま、そういうこと」 斉藤はそう締めくくって、ごそごそと自分の机から次の授業の教科書を出し始める。やっぱり真面目なメガネだ。わたしは斉藤をメガネと呼んでやることに決めた。勝手にベルとか呼びやがったお返しだ。ざまあみろ。 終礼が終わって、わたしはまず菊本伴のところへ行った。クラスのボスは校庭の木陰で読書を楽しんでいた。危険なとりまき、ボディガードの類は、一切なし。念のため、それを確認してから近づく。 「何、読んでんの」 「罪と罰」 こちらを見もせずに伴は答えた。 「面白い?」 「訳者が悪いわ」 やくしゃとは何だろうか、と馬鹿なわたしは考える。きっと役者、登場人物のことだろう、と判断して適当に「ふうん」と相槌を打った。 「なんでわたしは『ベル』なの」 「嫌い」 「はあ?」 「わたし、説明するのって嫌い」 どうやら彼女は、センテンスの中の一番伝えたい単語のみで受け応えする癖を持っているらしかった。厄介というか、他人との意思疎通がかなりしにくそうな、不便な癖だ。無口な一匹狼には相応しいかもしれない。 「てか、説明されないとわかんないし」 わたしがそう云うと、伴はやっと本から顔を上げた。「『りよこ』だから」 おお、簡潔にして明瞭なお答えですね。 でもやっぱり意味がわからない。 「どうして『りよこ』だと『ベル』なのさ」 「面倒くさい」 「説明するのが?」 「そう」 わたしは進まない会話に脱力しはじめていた。というか、疲れていた。でもわたしは伴に、今までにないものを感じていた。思えばこのとき、わたしは初めて他人に対して関心を持ったのだと思う。身内にすら全く興味を持たず、ましてや愛するとか大切に思うとかいうことなんて絶対になかったわたしにとって、この瞬間は天然記念物並みに貴重だ。 「どうしてわたしに名前をつけたの」 「特別だから。あなたはわたしと同じだから」 「何、それ」 わたしは少し笑った。何故笑ったのかはよくわからなかった。 わたしがスタンであるのと同じにあなたはベルなのだと菊本伴は云った。同じだと。何故初対面のクラスの首領に同類扱いされてしまっているのだろうか、わたしは。そもそも彼女の目にわたしという人間はどう映っているのだろう。わたしには、彼女は死んでいるように見える。何も見ていないように見える。全てを押し殺しすぎて殺すものがなくなってしまったみたいに見える。それと同じだということは、わたしも死んだまま生きているということだろうか。たどり着いたその結論は、あながち間違いとも云えないかもしれない、とわたしは考えた。わたしも今まで、死んでいた。伴に出会うまでは。 「あなたはいずれきっとわたしになるわ。名づけはその証」 伴は本を閉じ立ち上がって、はや歩きで去っていった。 そのときわたしはまだ彼女に聞きたいことがありすぎて困るくらいにたくさんあったのに気づいた。自然と、わたしは舌打ちした。 伴の、クラスでの崇拝され具合は尋常ではなかった。 「スタン、音楽室まで荷物をお持ちしましょうか」 「スタン、給食を持ってまいりました」 ……そんな言葉が日常的に、しかも大量に溢れている。みんなスタン――菊本伴に好かれるのに必死になっているようだった。伴はその奉仕のほとんどを、首を振って無言で断った。吐き気がする。てめえらには意思ってもんがねえのか。いじめられてるみたいにぺこぺこしてんじゃねえよ。つうかうざいから。 そんなことを小声で毒づくわたしも無関係ではいられなかった。わたしも伴の右腕として崇拝され始めていたのだ。わたしは、奴隷のようなクラスメートたちの好意を片っ端から断った。伴がそうしていたからじゃなく、わたしが断りたかっただけなのだが、伴はそれを見て「やっぱり、同じ」と云った。わたしは何故か腹が立たなかった。わたしは伴に好意を持ち始めていた。勿論、奴隷としてじゃない。わたしは伴を崇拝したり持ち上げたりすることは絶対にしなかった。多分、それが伴に『名づけ』られた特別なわたしでなかったら、クラスメートたちか、もしくは伴本人に裁きを下されたりするのだろう。ぞっとする。 伴自身は彼らをどう思っているのかと訊くと、彼女は「当然」とだけ答えた。わたしは『特別』だから崇拝されて当然――それは多分そういう意味だったのだと思う。本来ならふざけんな調子乗ってんじゃねえと息巻くところなのだが、伴のあまりに淡々とした口調に押されたのか、それとも単に伴のことを嫌いになれなかったのか、わたしはその答えをとても伴らしい答えだと思った。 それから数週間が経った。 わたしはその日、学校から帰る途中だった。 何処かで見たような顔の男子に、 「利賀りよこ、待て」 と声をかけられた。名前を呼ばれたのは久しぶりのことだった。 その声を合図にしたかのように、わたしは何人かの男子たちに囲まれた。まずい。わたしは身の危険を感じた。案の定、男子たちは臨戦体勢に入っているようだった。 「おまえ、生意気なんだよ! 急に出てきてスタンに気に入られやがって」 男子のうちの一人がそう云い、わたしは一発思い切り殴られ、その場に倒れた。 そのときだった。 「ベル」 と聴いたことのある静かな声がした。 スタン――菊本伴だった。 その顔を見るやいなや、男子たちは「やべえ、スタンだ」と口々に叫びながら逃げていった。 「許さない」 それは多分、「わたしの所有物に手を出すことは許さない」という意味だったのだろう、とわたしはのちに思った。 「大丈夫」 と、微妙な疑問口調で問われ、わたしは頷いた。差し出された伴の手は、口調と同じように冷たかったが、そのときほど伴の冷たい口調に助けられたことはない。思えばこの瞬間に、わたしは伴に一生ついていこうと決意したのだ。伴のことが神様のように思えた。 その日から、わたしの無色の日常に一色の伴という色が加わって、わたしの生活を大きく変えていった。平たく云い切ってしまえばそれは一つの恋だったのかもしれないし、友情だったのかもしれないが、わたしはそういう俗物的な言葉で伴との関係を括ってしまうのがとても嫌だった。 でもこれだけは間違いない。 わたしは、伴のことが好きだった。誰よりも何よりも大事で、一生を賭けてもいいくらいだった。それは、それだけは、今でも変わらない。 |