その夜、わたしは夢の中にいた。 そこにはまだ伴がいて、わたしは幸せそうに笑っていた。伴は生きている間、わたしの前では一度も笑わなかったけれど、それが伴のアイデンティティでもあったから、わたしはあまり気にしてはいなかった。むしろ、『伴は笑わない』という暗黙のルールがあって、伴はそれを遵守しているかのようにも見えた。 美都と一緒にいるときは、伴は笑ったのだろうか。そんなことを考えた瞬間に目が覚めて、わたしの頬には涙が伝っていた。何故泣いているのだろうか。夢の中では楽しい出来事しか起こらなかったはずなのに。 その後二度寝して少し遅れて学校に行き、席に着くと、美都のあの嫌味な笑みが待っていた。 「遅刻は良くないですね」 と彼は言った。 「二度寝してました」 とわたしは正直に言った。美都はふうん、と喉を鳴らして、私の机から去っていった。やけにあっさりとした去り際だった。わたしの不機嫌なオーラを察知したのかもしれない。わたしは酷くイラついていた。伴との楽しい時間を夢に見た。なのに何故、イラつく必要があると言うのだろう? 答えは意外と簡単に出た。 美都と過ごした時間、伴はどんな風に過ごしていたのか、どんな表情で、何を考えていたのか。それがわからないから、こんなにも腹立たしいのだ。 帰りのチャイムがなる瞬間まで、わたしは終始イライラしていた。ぱっと見ただけでも機嫌が悪いのがわかったのだろう、学校初日だというのに他の生徒も教師もわたしには話しかけてこなかった。話しかけられても不機嫌な応対しかできなかっただろうから、別に構わない。伴以外に友達なんて必要ない、そう心から思っているからだ。伴と出会う前の私に戻りかけているのかもしれない。誰にも興味を持たない、誰も愛さない――そんなわたしに。 次の日もわたしの機嫌はおさまらなかった。頭がガンガンするぐらいイライラして、吐きそうだった。机に突っ伏して寝ていると、誰かが話しかけてきた。 「ベル」 久しぶりに聞く私の呼び名だった。その呼び名が妙に懐かしくて、わたしは重い頭を上げた。見知らぬ男子がわたしの机の前に立ち、わたしをじっと見ていた。目鼻が整った顔立ちで、でも、何かパーツが足りないような感じがする。前にどこかで会ったような気も……しないでもない。というか、わたしのもう一つの名前を知っていると言うことは、小学校で会ったことがあるはずだ。そうは思いつつも、小学校での同級生の顔も名前もほとんど覚えていないので、わたしは「誰?」と聞いた。 少年は苦笑いをした。 「僕だよ、斉藤だよ」 ああ、と私は納得した。さっき何かパーツが足りないと思ったのは、メガネをかけていないからだ。わたしの中で斉藤はすなわち『メガネ』だったので、メガネのかけていない斉藤は斉藤だと認識できなかったのである。酷い話だが、事実だ。 「あんた、コンタクトにしたの?」 「まあね」 と斉藤は顔を赤らめて照れたように笑った。 「久しぶりだね、ベル」 彼はそう云った。 ベル。その響きが、過去を思い起こさせる。伴の抑揚のない声。愛しい声。わたしを呼ぶ、声。 わたしはごまかすように云う。 「もうスタンはいないんだよ。ベルって呼ぶのもやめにしてよ、斉藤」 斉藤は真顔になって云った。 「でも僕の中ではずっとベルだからなぁ」 ふと、伴の言葉を思い出す。 『わたしがスタンであるのと同じに、あなたはベル』なのだと伴は言った。それは、伴自身が死んでもずっとそうなのだろうか。私はいつまでもベルで、伴はいつまでもスタンなのだろうか。少なくとも斉藤にとっては、いつまでだって、菊本伴はスタンだし、わたしはベルなのだ。 「まあ、いいけどね」 わたしはそう云った。本当はあまり伴以外の人にベルとは呼ばれたくなかったけれど、斉藤にだって人の呼び方を選ぶ権利くらいあるのだ。構わない。そんなことはいちいち気にしない。 そう、今決めた。 「ありがとう」 そう云ってにっこりするメガネのない斉藤はぱりっとした清潔な制服を着こなしていて、すごく大人に見えた。かっこよく、見えてしまった。その凛々しい姿に、美都のすらりとした体が重なって見えて、わたしは一瞬どきりとした。 斉藤が去り、わたしはまた机に突っ伏して下校時刻まで寝た。頭の痛みは徐々に引いていっているようだった。 誰かの気配に気づいて目を覚ますと、また誰かがわたしの机の前に立っている。すらりとした見覚えのある影。 「お目覚めですか」 世の中の全てを軽んじているかのようなその声は、八郷美都のものだった。 「何か用ですか、センセイ」 嫌味ったらしく云ってやると彼は肩をすくめた。 「一日中寝ていたらしいですが、具合でも悪いんですか」 「頭が痛いんです」 本当のことだったその言葉が嘘くさく響いたのでわたしは少し後悔した。もっとうまく聞こえる嘘をつくべきだったか。だけれど、美都はただ頷いただけで、社交辞令だったらしいと気づいて胸糞が悪くなった。また頭痛がぶり返す。この頭痛が、端的に云ってしまうとこの男のせいだということが更にイライラを増させた。聖人のような顔で社交辞令をくりだす美都が酷く憎かった。 「何か用ですか」 とわたしは同じ台詞を繰り返した。用がないならそこから消えるか、このイライラと頭痛を解消してくれ、そう云いたかったが抑えた。 「伴君の遺言に関する約束のことですが」 伴、遺言、という単語に、ぴくりと私の肩が反応して動いた。それが返事の代わりになったらしく彼は続けた。 「約束は、守りますから。それだけ、云いに来たんです。学校は、あなたにとって苦痛な場所であるようですから」 どうやらわたしの体調不良が、学校に拒否反応を示しているからだと勘違いしているらしい。まあ好都合かもしれない。訂正するほどのこともないだろう、そう判断してわたしは、 「それはわざわざどうも」 と白々しい台詞を吐いた。美都は、 「あなたは……」 と、何かを云いかけ、表情を変えた。その変わった表情が、いつもの美都と少し違うような気がして、わたしは違和感を覚える。大好きな誰かと生き別れたかのような、自分の半身をえぐりとられたかのような、そんな悲しそうな目をしながらも美都はふっと笑った。 どうしてだろう。なんだか後ろめたい。謝らなければならないような気さえする。 「わたしが、何?」 言葉を詰まらせた美都に問い返すと、美都ははっとしたように、早口で、 「何でもない、です」 と言った。何でもないはずはないのだが、わたしは何も云えなかった。云うべき言葉を持たなかった。美都があまりに儚げに笑ったから。今にも美都が死んでしまいそうに感じて、美都が遠い遠い人に思えた。今までのわたしならそんなのは上等だったし、むしろ美都なんか死ねばいいと思っただろうが、今のわたしは何故か違った。美都には死んでほしくないと感じた。伴が死んでどうしようもなく哀しかったように、美都が死んでもわたしは哀しむ。そんな気さえしたのだ。本当に。 後から思えば、このときわたしは初めてある可能性を意識した。自分が伴以外の人を気にしたり、愛したりできるのではないかという可能性。伴だけが特別であったわけではなく、あくまで今まで自分が人を愛するやり方を知らなかった、人を愛することに慣れていなかった、それだけのことなのではないか、そんな可能性。人を好きになるという才能はおそらく普通の人間なら当たり前に持ち合わせているものだったのだろうが、わたしにとってそれは革命だった。わたしは人を愛することを知らず、人に執着することを知らず、生きてきた。そして伴と出会い、初めて人に対して無関心以外の何かを持つことを知った。それで終わりだとそのときは思った。伴を好きになることでわたしはもう誰を好きになることもなくなる、そんな風に思っていた。その認識が間違っていたのかもしれない。私はまだ誰かを好きになったり愛したりできる。いや、できなくてもいい。今問題なのはそうできる可能性があること。一パーセントでも、そうできる可能性があるなら、わたしはその為に生きてみてもいい。死んだように生きなくてもいい。それは甘美な輝きを持つ一つの免罪符だ。 生きることはつまらないことだと思っていた。つまらなくてつらくて、おまけにどうでもいい、いつ失われても特に気にしない。それがわたしにとっての生だった。その認識は伴によって塗りかえられた。伴が死んで塗りかえられた認識はまた暗く濁ってしまったけれど、伴以外の誰かによってまたそれが新しく変えられる日が来るならば、端的に云えばわたしがまた誰かに興味を持たれたり持ったりすることがあるならば、その日の為に生きてみてもいい。もう死にたいなんて考えなくてもいい。 わたしは、幸せになれる。なることができる。なる権利がある。そんなことは誰も教えてくれなかったし、知らなかった。幸せとは遠いおとぎ話だと思っていた。 「ねえ、美都」 わたしは何かに憑かれたように話し出していた。 「今までわたしは菊本伴と同じだと思ってた。でも違うの。わたしは伴の途方もない哀しみとは無縁かもしれない。わたしはスタンと同じじゃない。確かに今までのわたしは伴と同じだった。他人に興味を持つことなんて無理で、屍のような瞳をして生きなきゃいけないって思ってた。でもそうじゃない。そうじゃないんだ」 わたしの突然の告白に、美都は酷く驚いたようだった。わたしは自分でも何を云っているのかよくわかっていなかった。夢中だった。誰かにこの事実を伝えたかった。『わたしは生きていてもいい』という事実を。 美都は面食らいながらもいつもの表情を取り戻していた。シニカルな微笑。美都は云った。 「りよこ君。少し落ち着きなさい」 その言葉で少し我に返る。わたしは何を云っているんだ? それではまるで、伴がずっと不幸だったみたいじゃないか。伴には「恋人」である美都やわたしがいたのだから、そんなはずはないのに。少なくとも、伴しかいなかったわたしよりは、幸せだったはずなのに。 でもそう言い訳しながらわたしは心のどこかで確信していた。伴は不幸だった。どうしようもなく人を愛したくて、でも愛せなかった。伴はあがいたけれど、結局誰も愛せないという自分の運命に負けて死んでしまったのだ。 「君は面白いことを云うんですね」 と美都は云った。 「そう、面白い。すごく面白い仮定だ」 独り言のようにそう付け足して、彼は両腕を羽ばたく鳥の羽のように広げた。 「あなたが知りたいであろうことを教えてあげます。僕は伴君の恋人なんかじゃなかった。君と同じで、伴君の実験道具みたいなものでした」 実験道具。 勝手にそう断定されて、腹が立った――と思えばそうでもなかった。むしろしっくり来た。親友なんて甘っちょろい言葉よりも、ずっと。 自分が人に興味を持つことができるかどうか、伴は試したかったんだろう。わたしたちを道具として使って、伴はそれを試した。その結果は……。 どうだったのだろう。それだけがよくわからない。 伴は自分の運命に負けて死んだ。でも。 伴は自分の死の儀式に二人の人間を同席させた。それは執着と云えるだろうか。愛と呼べるだろうか。自分の最期を見届けてほしいというその気持ちは、果たして愛なのだろうか。わたしたち二人の「実験道具」を使っての実験は、最終的には、成功に終わったのか、それとも……。 美都はすっと長い腕を組んで、 「恥ずかしながら、僕は惚れっぽい体質でしてね」 と語りだした。 「人に少し優しくされると、すぐに好きになってしまうんです。それを伴君に云ったら、彼女はなんだか普段と違う、見慣れない表情になっていました……今思えば、あれは、羨望の眼差しだったのかもしれません。伴自身は人を好きになることができないのに、どうして僕には簡単にできるのだろう、何処が違うのだろう、という」 わたしは何も云わずにいた。美都の目から見た伴の話をもっと聞きたかった。伴と美都が二人でどんな時間を重ねていったのか知りたくて仕方なかった。だからといって無理に先を促すのは無様なので、わたしはひたすら黙っていたのだ。 しかしながら美都の方はそんなわたしを見透かしていたらしく、「まあ、そんなところです」と適当に話を締めくくった。わたしが残念そうにしているのが見てとれたのだろう、彼は、 「もっと聞きたかったですか」 と含み笑いをした。わたしはその態度に腹が立ったので、 「いいえ」 と強い調子で云い切った。美都は笑った顔のままで、「そうですか」と云った。馬鹿にされているような気がして余計に腹が立ったので、 「もう帰ります」 と云ってほとんど中身の入っていない鞄を手に立ち上がった。下校時刻はとっくに過ぎている。わたしは美都の顔を見ずに駆け出した。すれ違いざまに一瞬見た彼の横顔が、なんだか寂しそうに見えたのは、きっと錯覚だと信じたい。 そのまま走って帰宅して、しばらくは美都と伴のことを考えていた。二人がどんな言葉を交わしてどんな風に過ごしたのか、想像してみたけれど、想像は所詮想像でしかなくて、頭の中の映像は霞んだようにぼやけていた。 タイムマシンがあればいいのにな、とわたしは幼稚なことを考えていた。美都の前での伴がどのようであったのか、そして伴の前での美都がどのようであったのか、知りたくてたまらない。と、そこまで思考して初めて気づいた。 伴のことはともかく、何故美都のことまで知りたいと思っているんだ? わたしは。 そこでようやく、わたしは美都という人間に興味を抱いていることに気づいたのだ。認めたくないながらも、そこに一つの思いがあることに。 美都のことが気になる。ただそれだけのことだったが、私にとっては大問題だった。伴のことしか眼中になかった、伴しか愛せないと思い込んでいた私が、他の人間に興味を持ってしまった。この瞬間は良くも悪くも貴重だった。 どうする。どうすればいい。この小さな芽は踏み潰してしまうべきなのだろうか。それとも育むべきなのか。わからない。わたしはこれ以上ないくらい戸惑っている。焦っている。 最も幸いなのは、この気持ちがまだ育ちすぎていないことだ、とわたしは焦りながら思う。「気になる」というだけで、好きとか愛とか、そういう段階に達していないことが、わたしを少しだけ安堵させていた。 二時間ほどじっくり考えて、鳩時計が深夜一時を告げたので、とりあえず寝ようとわたしは思ったけれど、布団に入っても美都への感情のことばかり考えていて結局一睡もできないまま朝が来た。 |