わたしは大きくあくびをした。 「ベル、寝てないの?」 と背後から声がしたので振り返ると斉藤だった。というか、わたしはすでにこのクラスで一匹狼化していて、話しかけてくるのは斉藤くらいだ。 シカトしてもよかったのだが、一応義理として返事をした。 「寝てない」 その声がよほど不機嫌そうに響いたのだろう、そのやりとりはそれで終了し、斉藤は男友達たち(斉藤に似て、優等生っぽい連中である)が集う席に歩いていった。 わたしはもう何度目かわからないあくびをして、机に突っ伏して寝ることにした。最近、机の上で寝るのがわたしの学校での通常スタイル化している 。 つんつん、と誰かに背中をつつかれて目を覚ました。 「誰?」 「僕だよ、斉藤」 振り向くと斉藤がにっこりと笑ったが、何処かぎこちない、緊張しているような笑顔だった。 「何? というか、今、何時間目?」 斉藤は苦笑いしながら(何故だろう、わたしと話すとき斉藤はよく苦笑するような気がする)、 「もう放課後だよ」 「ふうん。で、何?」 斉藤は答えずにうつむいた。何だ? いつもの斉藤ならもっとスムーズに話しているはずだ。少なくともそれが、わたしの知る斉藤だ。 「あのさ、ちょっと」 と斉藤は切り出した。 「手間取らせて悪いんだけど、理科準備室に、来てくれる? ベル」 「わかった」 わたしは素直にそう返事して、教室を出る斉藤についていった。何の用だろう、とは思ったが、斉藤のことだからまた勉強の話かなんかだろ、と軽く考えていた。 理科準備室に着いて、斉藤はわたしに向き直った。 「えーと」 と斉藤は煮え切らない調子で云った。 「あの、ベル。びっくりするかもしれないんだけど」 「何」 「えーと、あの、」 斉藤は云った。 「僕は、ベルのことが、好きです」 わたしが目を見開くと同時に、真っ赤になった斉藤がうつむいた。 気づいたら、わたしは一人で理科準備室にいて、斉藤はいなくなっていた。全て夢だったんじゃないかと思った。 そう、全て、白昼に見た悪い夢だったんじゃないか。斉藤に告白されるなんて、ありえない。 いや。今までの斉藤の行動を考えれば十分にありえる事象だったのかもしれない。わたしはそう考え直す。 「好きです」、そう云った斉藤の真摯な眼差しがまぶたに焼きついて離れない。わたしはどきどきしていた。なんでだろう、もうここには誰もいないのに、わたしは酷く緊張していた。 斉藤に返事をしなければならない。何て返事をするんだ。しかし、落ち着いて考えれば、返事は一つしかない。 わたしは斉藤のことは優しくていい奴だと思っている。たくさん親切にしてもらった。優しくしてもらった。感謝しているといっても間違っていない。 でも……あの、斉藤の「好き」、という言葉を聞いたとき、わたしは柔らかに微笑む美都の姿を思ってしまったのだ。そのとき、気づいた。わたしは斉藤のことはなんとも思っていなくて、美都のことが気になっているのだ。勿論「好き」なんて直接的な感情は持っていないけれど、美都のことを考えて一晩寝れないくらいには、美都のことが気になるのである。 あなたのことはなんとも思っていない。そう伝えたら、斉藤はどんな表情になるだろう。残念そうに目を伏せるだろうか。それともわたしの感情なんてそれこそ美都のように見透かして、ああやっぱりな、と思い寂しげに笑うのだろうか。そのどちらになるとしても、わたしの心は軋むように痛むのだろう。そしてその痛みこそが、わたしが、なんとも思っていないはずの、ただの他人のはずの斉藤のことを思いやることができる人間になったという、もう誰も愛せない「ベル」とは違うのだという証なのだ……ふと、そんなことを思った。伴は、そのことを知ったら哀しむだろうか。それとも人を愛することのできる美都に対して感じたように、羨ましく思うのだろうか。わたしには予想がつかなかった。 次の日の放課後、また理科準備室でわたしと斉藤は向かい合っていた。 「その、斉藤には感謝してるし、嫌いではないんだけど、好きとかそういう感情はない。ごめん」 とわたしは早口で云った。斉藤は無表情だった。 「ごめん」 と彼は云った。いつもの苦笑を交えて。 「困らせちゃったよね、ベル。これからも前と同じように接してくれると嬉しいな」 斉藤が無理に笑っているのがわかって、わたしは哀しくなった。 「斉藤」 わたしは慌てて云った。 「わたし、斉藤がわたしに親切にしてくれたこと、絶対忘れないから」 斉藤は一瞬面食らったようだったが、 「……うん」 コクリとうなづいて、彼は笑った。心底嬉しそうな、無理のない笑顔だったので、わたしもつられて笑った。 その数日後は校外学習だった。ハイキングに行くという話だった。わたしは班決めの際にも寝ていたのだが、斉藤が機転を利かせて同じ班にしておいてくれたことを当日に知った。 「わざわざありがとう」 とわたしはバスで隣の席になった斉藤に云った。 「いや、余計なことだったかもしれないって思ってたけど、ベルがそれでいいならよかったよ」 斉藤は照れくさそうに笑う。わたしも居心地が良かった。「居心地がいい」なんて感じるのは伴といたとき以来だな、とわたしは思っていた。斉藤と友達になれてよかった。わたしは柄にもなくそんなことを考えていた。 わたしは斉藤たちに適当に付き合って午前中を過ごした。斉藤以外のメンバーたちはわたしの存在が酷く気にかかるようで居心地が悪そうだったが、わたしはあまり気にしていなかったし、斉藤は「ベルは僕の友達なんだ」と一言紹介をしただけだった。 昼、班員とご飯を食べた後わたしは一人でぶらぶらすることにした。斉藤に一言云い残して、わたしは班から離れた。 ハイキング、というだけあってそこには草や木くらいしか見るものがなかったが、わたしは一人で山の中に入っていって、あるものを見つけた。 それは一本の木だった。その木は、昔、家の近くにあった、伴と登った木に似ていた。ここへ来るのは初めてだから、あくまで似ているだけなのだが、なんだか無性に伴が恋しくなって、わたしは思わず木の枝に足をかけて登り始めていた。 わたしは夢中で木に登った。一番高い場所に着くまでには、意外と時間がかかった。たどり着くと、わたしは息をつきながら風景を眺めた。絶景だった。 「伴……綺麗だね」 ぼそりと呟いた独り言は、伴と一緒に木に登ったとき最初に云った言葉と同じだった。伴は返事をしなかったが、わたしはその態度を見て肯定の返事だと受け取った。 わたしはしばらくぼんやりとしていたが、誰かの悲鳴のような叫び声で我に返った。その声を、わたしは耳を澄まして聞いた。 「何をしているんだ!」 とその声は云った。それがわたしに向けられた声だとわかって、わたしは自分の真下に人が立っていることに気づいた。 「危ないから、降りなさい! りよこ君」 そこにいたのは八郷美都だった。酷く焦っているようで、いつもの美都とは違っていた。それがなんだか新鮮だった。 周りには何人かの生徒が、美都を囲むように集って、わたしを見ていた。危なくなんかない、そう返事をしようとした瞬間、めきめきという嫌な音がわたしの乗っている枝の根元から聞こえてきて、わたしは驚愕した。女子たちが悲鳴をあげたのが聞こえた。わたしは真っ逆さまに落ちていった。 「痛い」 わたしは意識を取り戻した。気を失っていたのは一瞬だけのようで、わたしはまだあの木下にいた。が、倒れているわたしの下に人間がいることに気づいて、わたしは青ざめてそこから退いた。 それは案の定、美都だった。頭から血を流して気絶しているようだったので、わたしは 「おい、美都」 と声をかけた。返事がない。やばいんじゃないか。そう思ってわたしは焦った。わたしの周りにはたくさんの人間がいて、美都とわたしの様子を伺っているようだった。 「美都。美都!」 わたしは呼んだ。返事は、やっぱりない。 「死ぬなよ、美都!」 わたしは無意識のうちに大声で叫んでいた。口に出してみると「死」という単語は酷く重くて、本当に美都が死んでしまう気がした。 「おまえも伴みたいにわたしを置いていくのかよ! そんなの許さない! 絶対許さないからな! 美都!」 自分の頬に涙が伝っているのがわかった。わたしは泣いていた。自分のためじゃなく、美都のために。いや、それは結局突き詰めて考えればやっぱり自分のためだったのかも知れないけど、今は美都のために泣いていると思いたかった。 「……よこ、君」 弱々しいが美都の口が動いたので、わたしは、 「美都?」 と一声、呼んだ。すると美都は、 「無事、だったんです、ね」 と切れ切れに云った。わたしは自分の身よりもわたしのことを案ずる美都に、驚きながら 「馬鹿! なんで避けなかったんだ」 と怒鳴った。 美都は馬鹿にしたように笑って、 「君を、助けたかった」 と云った。わたしは自分の顔が真っ赤に火照るのを感じていた。同時に、わたしは自分のうちに秘めていた美都への好意の芽が、この瞬間瞬間に徐々に育っていくのをはっきりと感じ取っていた。 「美都」 「なん、ですか」 「ありがとう」 わたしは全身全霊を賭けてそう云った。この大きな大きな感謝の気持ちが美都に伝わりますように。そう願いながら。 美都は、頭の傷が痛くないはずはないのに、やっぱり笑っていた。それが酷く心地よかった。 「死ぬなよ、美都」 わたしはそう云った。さっきとは違って、こう云えば美都は死なないような気がしていた。 「死に、ませんよ」 と云ってから、しばらくして美都は「多分」と付け足した。その云い方がとても美都らしくて、わたしは笑ってしまった。 「大丈夫、ですか」 と美都が聞いた。わたしは大きく頷いた。 大丈夫だ。もう、わたしは、大丈夫。 美都は救急車で運ばれたけれども、数日して無事に学校に戻ってきた。頭に巻いた包帯は痛々しかったが、表情や振る舞いは変わっていなかったので、わたしは安堵した。 それからしばらく経った日曜日のこと、わたしは公園のベンチで美都と二人でコーヒーを飲んでいた。 呼び出したのは美都だった。美都がわたしを呼び出す用事は、一つしかない。伴の遺言についてだ。 「さて」 と美都が切り出した。わたしがあまりにも真剣に構えて黙っているので、美都が苦笑した。 「そんなに緊張しなくていいですよ」 前までのわたしなら「うるさい黙れ」とでも云っているところだろうが、今の私にはそんな余裕はなかった。 「早く云ってよ、美都」 それだけ、搾り出すように云った。 美都はやれやれと云った調子で肩をすくめ、 「『わたしは、この社会におけるサクリファイスである』」 そう語りだした。 「『その役割を担うため生まれてきたことを、わたしは、この世界に生を受けた瞬間から知っていた』」 美都がわたしに目配せする。わたしは黙って頷いた。 「『犠牲がなければ、世界は成り立たない。わたし、そしてこれを呼んでいるベル、』」 わたしは名前を呼ばれてどきりとした。 「『美都、あなた方は皆世界に影響するのだと、世界に影響をもたらさない人間などいないことを、わたしは知っている』」 そこで美都は一区切り息をついて、続けた。 「『でも、だからこそ、わたしは犠牲という役割を、世界に対する役割を担わなくてはいけない。さようなら』」 美都の声が途切れた。少し間をおいて、「以上です」と美都が云った。わたしは混乱していた。「犠牲」?「世界」?「サクリファイス」? そこに語られた伴の考えは、何一つとして理解できなかった。わたしは伴から遠ざかっていく自分を、感じていた。わたしの中の伴が、どんどん遠くへ行ってしまう。やりきれなかったが、どうすることもできなかった。 「僕にもよくわかりません。でも」 美都がわたしの目を見て笑いかけた。 「あなたが泣くことは、ないと思いますよ」 泣いてなんかいない。 そう云い返そうと思ったのに、涙が溢れて言葉にならなかった。なんで泣くんだ、わたし。美都に泣き顔を見られるなんて、最大級に嫌なことであるはずなのに。 「伴ぉ……」 わたしは伴を呼んだ。 伴の後ろ姿が見える。ゆっくりと振り返る、その顔には表情がない。何を考えているのかわからない、いや、わかれない。 わたしには、わかれないのだ。 それが歯がゆかった。歯がゆくてたまらなかった。 「……僕にも、わかりませんよ。伴君の考えていたこと。それは、伴君が死ぬ前も後も同じでした」 何処か悔しそうに美都が云った。 「確かにこの社会は多くの犠牲の上に成り立っているものです。でも、だからといって、自分からその『犠牲』になろうなんて人間が、果たして、いるでしょうか」 だが、いたのだ。自ら『犠牲』となるべく手首を切り裂き屋上から落下した、そんな少女が、わたしたちの前に。 「伴は、何のために死んだって云うんだ。『社会』なんて、『世界』なんて見えないもののため? そんなもののために死ぬなんて馬鹿げてる」 わたしは叫ぶように吐き捨てた。ええ、と美都が頷いた。頷いたけれどもその声にはわたしへの反感がこもっていた。 「馬鹿げています。でも、僕らが理解しようとしてみなければ、誰が伴君をわかってあげられますか? 僕は一生をかけて、伴君を理解する。少なくとも、そうしようとする。綺麗事かもしれませんが、そうすることが僕の償いです」 償い? わたしも償うべきなのか。伴を死なせてしまったという罪を。 わたしにはわからなかった。過去も今も、わたしは何もわかってなんかいないのだ。わかったふりをしようとしてるだけ。いつも、斜に構えて格好つけようとしているだけだ。それじゃあ駄目なんだ。それじゃあ伴には近づけない。 だが、……わたしに何をしろというのだ? わたしは無力だ。何もできずにただ泣くだけの赤子だ。自分でもそれくらいわかっている。わかっているけど、どうにもならないことだってある。 わたしはしゃくりあげて、もう一粒涙をこぼした。そのとき、美都がわたしの肩を抱いて、「ごめんなさい」と云った。 「馬鹿……やめろよ。美都」 「女の子が泣いているときは、肩を抱いてあげるべきでしょう?」 そう云われてわたしは腹が立った。この糞野郎、そう思った。腹が立ったはずなのに、言葉は出てこなくて、涙がもっと出てきた。 「伴君も……泣いていたのかもしれませんね。こうして肩を抱いて、話を聞いてあげればよかったのかもしれない」 美都がぼそりと云った。その声を聞いて、美都も泣いているような気がしたけれど、わたしは見ないふりをし、聞かないふりをしておいてあげた。 そのかわりに、わたしは少し間をおいてこう云ってやった。 「わたし、美都のことが好き。美都は嫌がって迷惑がるかもしれないけど、多分、この気持ちは本物だと思う」 さあ、この不意打ちに美都がどう反応するか。わたしはそれを楽しみにしていた……かどうかは、よくわからない。夢中だった。一生をこの瞬間に賭けてもいいくらいに、夢中で云った言葉だった。 美都は案外冷静だった。憎らしいくらいに簡素な反撃をしてきやがった。 「伴君よりも、僕のことが好きですか」 やっぱりそう来たか。わたしは思った。 わたしは、美都は必ずそう云うと思っていた。 「伴のことが好きだっていう気持ちは、自己愛に近かった気がする。伴はもう一人のわたしで、わたしはもう一人の伴だった。双子のように、寄り添い一緒にいたわたしたちは、結局自己愛に酔っていただけなのかもしれない」 わたしが泣きながらそう云うと、美都はぎゅっとわたしを抱きしめた。 「君たちは、確かに似ている。君を見ていると、伴君を思い出して、なんだか胸が苦しくなるんです」 でも、と美都は続ける。 「君と伴君は、やっぱり違う。その違いを、これから一緒に見て、感じて、僕は生きたい。……そんな答えでは、いけませんか?」 いけなくない。 全然いけなくなんかない。 わたしはそう答えようとしたけれど、わたしの声は結局声にならずに消えた。代わりに涙が溢れて、情けない叫び声のようになった。 でも、美都が頭を撫でていてくれたから、わたしは満足だった。これからは前向きに生きていける、そんな気がした。伴のことも乗り越えられて、これから幸せな未来が来る。そう信じていた。 その夜、わたしは夢を見た。 伴がわたしの前で突然炎に包まれて死んでしまう夢だった。 叫びだそうとしても声が出なくて、赤い赤い炎が消えた後、黒こげになった焼死体を前に呆然とした。 そして、わたしは気づいてしまった。 焼死体が、なんだかいつのまにか大きくなっていないか? どう考えてもわたしより大きい。黒こげだからよくわからないが、体格も明らかに男のものであるような気がする。 わたしははっとした。 「美都?」 わたしはそう呟いた。そこで目が覚めた。わたしは嫌な汗を全身にかいていた。 今の夢は、何? その答えを、わたしは学校に着いてから知ることになる。 わたしは席についてぼんやりとしていたが、嫌な予感と夢の嫌な余韻は拭えなかった。 HRの時間になっても、美都は現れなかった。代わりに、隣のクラスの担任が少し遅れて現れて、ある事実を告げた。 その事実が、わたしを刺し貫いて、動けなくした。嘘だろ? そう思った。 だが嘘ではなかった。その朝、わたしはテレビを見なかったが、テレビでも高らかに報道されていたらしい。 その報道によれば、八郷美都は、昨日の帰り道、通り魔にナイフで刺されて死んだ。即死だったらしい。 目撃者の情報によれば、通り魔は若い男で、身長は百六十センチくらい、染めているのだろう、鮮やかな赤毛だった、ということだ。 わたしはいくら報道を聞いても美都の死を信じられなくて、ずっと抜け殻のように呆然としていた。 昨日は、あんなに温かかったのに。もうそのぬくもりが二度とわたしに触れることはないということが、信じがたかった。美都はもう二度と笑わなくて、二度と泣かない。そう自分に言い聞かせても、わたしの中にいるもう一人のわたしはそれを理解しようとしなかった。 その日から、わたしは完全に抜け殻になった。わたしの中にあったのは、いくつかの悔恨と、たった一つの大きな大きな絶望。その絶望はわたしの中に暗い影を落とし、そしてある仮定を抱かせた。 わたしの愛した人は、必ず死んでしまうのではないか。そういう運命なのではないか。 馬鹿げた仮定だった。でも一度そう考えてしまったわたしは、もう元通りにはならなかった。もしそれが本当なら、人を愛することは人を殺すことになり、大切な人を失うことと同義になるだろう。わたしはこれ以上誰かを失うことになるのは嫌だった。もう誰も、死なせたくなかった。だから決めた。 もう、誰も、愛さないと。 伴と美都のことだけを想って、生きていこう、と。 |