ぼくと彼女のスーサイド・ラボ

 死ぬ。という単語はもちろん自死、自殺を意味するのだが、それについて考えるとき、同時に遺書について考えてしまう自分はまだまだ未熟だ。本当にこの世がどうでもいいのなら、自分がいなくなった後の世界にも関心はないはずで、遺書なんて不要なはず、というのがぼくの持論だ。だから遺書なんて書く必要はどこにもない。誰にどう思われたってかまわない。あとあとどう思われたいか、なんて考えるのは真の自殺の境地ではない。誰かに迷惑をかけないために、というのなら多少わかるけれど、自殺っていうのはもっと自分本位であるべきではないのかな。誰かのためという精神は美しいけど、自殺はあくまで自分のためのもの、もっと言うなら自殺のためのものだとぼくは思っていて、
 まあ、だからこそぼくは死ねない。
 自分がなぜ遺書なんてものを書こうと思うのか、その答えを見出さなければ本当に死にたいと思えない。いや、これは嘘だ。ぼくは死にたくて、死にたいからこそ遺書を書くことを考えた。でも、これは本当の死にたさじゃあない。そう思う。ぼくが死にたいと思う「死にたい」は本当の死にたいではないのだ。本当に死にたい境地にはまだ至れていない。そうに違いない。
 では、ぼくはどうすべきか?
 もちろん生きるべきだ。本当の「死にたい」を求めて。
 ああ、この心地よい矛盾。こういうものを言葉にして発音してみるとき、ぼくは久方ぶりに、生きていてもいいかなと思う。矛盾とか、痛みとか、気持ち悪さとか、そういったものが心に突き刺さってぐらぐらと揺れながら裂け目を作る。裂け目から何かがあふれだして世界を飲み込んでいく。飲み込まれた世界は何も変わることなく平然としている。その裂け目を破る感覚こそが、ぼくを「死にたい」から遠ざける唯一のもの。


 というようなことを彼女に言ってみたら、案の定、呆れた顔になった。病院行った方がいいんじゃないの。彼女はそう告げたが、悲しきかな、ここはすでに病院である。病院から病院には、行けないね。

「死にたいという心持ち、それはまあ許せる。同意すらできます。でも、わたしが何より理解しがたいのは、死にたいという気持ちを生きるエネルギーに変換するあなたのその、燃費の良さね。あなたは生きるべきかもしれない。その奇妙な生態を、わたしたち学者に観察させてほしいの。このままあなたが死んでしまうと、なんだか座りが悪い。あなたがなんで死にたくて、なんで生きたいのか、わたしたちにはまったく伝わっていない。ほんと、普通、もうちょっと単純な行動原理ってもんがあると思うんだけれど、あなたにはそれがない。そこがとても興味深いのです」

つまりぼくは実験動物ということ?
まったくもって歯に衣着せぬ先生だねえ。ぼくはくつくつ笑った。
彼女はメガネを押し上げた。

「実験とは言わないわ。いや、生きることなんてすべて実験にすぎないともいうかしら。誰も彼もの人生はすべからく他の誰かの実験なのです。だからまあ、あなたが実験体であったとして、それは別に蔑視されるべきことではないということ」

ああ、先生の言うことは難しくて、頭の悪いぼくにはよくわからないな。
ぼく、義務教育すらまともに受けてないからさ。昔からずっと、ここにいるしね。
彼女は舌打ちする。

「また、馬鹿なことを。あなたは頭がいい。それくらいみんな知ってるんですよ」

それはそれは、また、買い被ったものだ。何を買ってまで被っているのだか、よくわかりませんが。
もしかして、人の皮ですかね。あ、ちなみに、皮を剥がれるのはちょっと、理想的。
一枚くらいなら、剥いでもらってみてもいいかもなあ。

「あんまりふざけたことを言っていると、また隔離しますよ」

うわあ、怖いな。人権侵害だ。
いや、あの部屋はこの部屋以上に何もなくて、けっこう好きだけど。
突き刺すような寒さも、なんか痛くて好きだし。
むしろ、ぼくはあっちに住んでる方が生きたくなるなあ。

「うわあ。って言いたいのはこっちだよ。痛くて好きとか、人間としてかなり気持ち悪いってわかってる?」

痛いのが好きな人なんて、昔からたくさんいるじゃないか。今更マイノリティ扱いされてもね。
ぼくは、気持ち悪いのも痛いのも、好き。すっきりしない気分も好き。吐き気がする、という表現があるけれど、ぼくとしてはむしろ吐き気は大歓迎だ。ああでも、吐いた結果としておなかがすくのはちょっと嫌いだな。遠慮したい。
彼女はぼくの言葉を無視して、こう申告してくる。

「あなたが生きたくなるとわたしが迷惑するから、隔離はなし。われわれはあくまで、死にたいあなたを知りたい」

うーん、悪趣味ですね。
知ってますか、趣味が悪いって書いて、悪趣味って読むんです。

「『先生』なんて呼ばれる人種はね、誰も彼も悪趣味なんです」

誰も彼も、というのが先生の口癖なのだ、とふと思った。
そう、ではあなたを悪趣味だと感じるぼくも、悪趣味でしょうか。
ぼくは、うすら笑いを顔に張り付けてそう問うた。

「意味がわからないことを、言わないで」

そう言う彼女の口調は妙に強く、彼女は理解できないものを恐怖しているのだと容易に知れる。
意味がわからないものを怖がっている人間は、終わっている。
自殺した人間が遺書を残さないことを不安に思う人間は、終わっている。
そこから先へ向かえない彼らは、止まっている。
だからまあ、彼女も、そうして停滞している人種の仲間なのだろう。
前進することができる人間は、人間の中でも一握りしかいない。
さて、ぼくは自分自身が前進可能な人間であるかどうかについては考えていない。それは、自分が決めることではないし、もちろん、他人が決められることでもない。
ぼくはぼくとして、ぼくの考えるべきことを考えるのみだ。
まず、死のことを。
そして生のことを。
最後に、ぼくと彼女のことを。


彼女が自分の病室に帰っていくのを見送りながら、ぼくは死について考えていた。
とりあえず、今日の結論。
この世は結構面白い。彼女の生態はぼくにとって非常に気持ちが悪く、理解しがたく、心地よい。二人で過ごしていると、寒気が走り抜けて背筋になる。怖気が通り抜けて空気になる。
それは、「死にたい」にも「生きたい」にも関係ない、ただの事実である。
明日も変わらず、ぼくは死のことを考える。「死にたい」を考える。
明日も変わらず、彼女はぼくの部屋にやって来る。ぼくを見ている。
ぼくらの白い部屋の中では、生も死もたいして変わらない。それでも死のことを考える。
いつか死ぬその日まで、ぼくは生と死のどちらに焦がれるべきかを必死に吟味しているのだ。



091225




かつて、「スーサイドラボ」という怪しげな団体が出版したカルト本を買ったことがありますが、それとはまったく関係のない話です。
「生きたい」を煎じて煮詰めていったら死になって、
「死にたい」を掘り起こして晒してみると生になる。
そんなことを考えて書いた話ですが、それすらもわりと関係のない話です。