ぼくと彼女のスーサイド・ラボ
ひらがなの「さ」の鏡文字のことを考えていた。上下がつながった形ではなく、斜め十字と直線が分離した形の「さ」である。手のひらに書いてみても、その字はしっかりと存在している気がするのに、どうしてだか五十音表の中のどこにも「さ」を鏡に映した文字は見つからない。発音すら分からない。
しかし、発音できないからと言って、文字がないとは限らない。「々」なんかは確固たる読み方がなかったように思うし、「さ」の鏡文字もきっと同じようなものだろう。
というようなことを彼女に言ったら「病院行く?」と言われることは想像に難くないので、言わないでおくことにする。ところで、彼女を彼女といつまでも呼びつづけるのは難儀だな、と思う。やっぱり、便宜上の呼び名は記すべきだろう。ぼくは彼女をC女史と呼んでいる。C、というのは彼女のイニシアルではないし、名前にも全く関係ない。彼女の身体的特徴を象徴的にあらわす、ある単語の頭文字である。女性のそういう特徴をあまり大声で言うのはよくないだろうし、彼女のプライバシーにも大いにかかわることだから、これ以上は言わないでおこう。……という風に匂わすと、これを呼んでいる人が混乱をきたしそうで、それはとても気持ちが悪くて気持ちいい。というのは置いておいて、ぼくには積極的に自分が気持ち悪くなる趣味はあっても、他人を気持ち悪くする趣味はない。だから事実だけ書いておく。彼女を象徴的にあらわす単語、それは「Cyclops」である。
さて、今日もC女史はカリカリしているようだ。カリカリ、という言葉はとても的確に精神の苛立ちを表す言葉だなあと、ぼくは考えている。爪の先で乾いた皮膚をひっかくような語感がとても好きだ。実際に自分の爪で皮膚をカリカリしたくなる。でも、実際には皮膚をひっかいてもそんな音はしないから、やめた。
「わたしはあなたがわからない」と彼女は言い捨てる。一方、ぼくにはわりと彼女が理解できている。というか、彼女のバックボーンや半生、考え方、生の言葉を全部知ってしまっているわけだから、理解できない方がおかしいと言える。彼女は生まれたときからここにいて、ここ以外の場所を知らない。女史の母親は女史を生んですぐに狂って死んだ。父親は謎の失踪。ぼくと女史が出会ったのはぼくが16のときだったから、彼女は18くらいだったか。ぼくは彼女を初めて見たとき、特に何も感じなかった。むしろ好ましいとすら思ったのは、彼女がその大きな目でぼくをじっと見つめたからだ。ぼくは他の患者や医者から女史の話を聞いて育ったが、彼女を実際に見ても、医者や患者たちが感じるのと同じ感情を得ることができなかった。まあ、ぼくも異常者だからかな。そもそも、ぼく自身が、外見で人を判断するということができないせいかもしれない。女史は、外見はともかく、中身はぼくよりずっと普通だった。
そうして、ぼくは彼女と過ごすことになる。病室と病室の間を、二人が交互に行きかう生活の始まり。最初は三日置きだったのが、二日置きになり、一週間置きになり、最終的に一日置きになった。
今では彼女の最も近しい人間となったぼくは、くるりと二個の目を回しながら考える。
彼女は「ゼロ」だ。女史にはベクトルがない。積極性というものが欠如している。
「生きたい」はプラスのベクトル。
「死にたい」はマイナスのベクトル。
どちらも積極的な人間の挙動である。
積極的に何かをしようと思わなくなってしまった人間には、ベクトルがない。明瞭な方向性がない。すべて諦めている。犬を縛りつけて電気ショックを与えつづけると、最初は抵抗するが最終的に抵抗することをやめてしまうというが、女史は生まれたときから強烈な電気ショックに晒されていたせいで、抵抗を知らない。抵抗という概念が、彼女には最初からない。それが彼女をゼロにしてしまった要因でもあるだろう。
しかしながら、ぼくの部屋に来る彼女はわりと生き生きとしている。最近の女史は、そんなに無気力的でもないのかもしれない。これについては、ぼくはノーコメントを貫いておこう。
「あなたは死にたいのか生きたいのか、どっちなの」と女史は問いかける。もちろん死にたいに決まっている。ぼくが「生きたい」だけを抱いて生きてきたのなら、今、こんな場所にはいないだろうさ。
「でも、あなたは『死ねない』という。『生きたい』という。それはなぜ?」
それについては何度も説明したと思うんですけれど。まあ、もう一度語ろう。
ぼくは死にたいけれど、どうもその死にたいは本物ではない感情で、ぼくは本当に死にたい気持ちを探すために生きているんですよ。死にたいについて考えていると、どうにもまだ考えが足りていない気がしてしまって、まだ考えなくちゃなあ、って思うんです。
「『死』について考えてるんじゃなくて、『死にたい』について考えてるの?」
ぼくは肯定する。だって、『死』には興味がないんだよなあ。そりゃあ『死にたい』には『死』が付属しているものだろうけど、付属しているものが全部必要なものなわけない。むしろ不要だから、付属品なんだよ。
あ、この『死にたい』にはぼくの嗜好が特殊だっていうのも関係あるかもしれないから、一応付け加えておく。ぼくは痛いとか気持ち悪いとか吐きそうとか、背筋がぞわぞわするとか、身体が震えて止まらないとか、そんな感覚が大好きだ。
幼少時はそれが特殊性癖だと思っていなくて、うっかり片手の指を全部切り落としてしまったりした。今でもぼくには、左手の小指がない。当時、両親は泣いていた。幼いぼくは、普通に生きるため、もう指を切るのはやめようと思った。両親の泣き顔についてのコメントは差し控えておこう。ぼくの場合、泣き顔がショックだったって言うと嘘に思われそうだし、逆に泣き顔がぞくぞくして気持ちよかったって言っても普通に受け入れられそうだしで、どっちを口にしてもあんまり自分にとって分が良くなさそうなんだよなあ。実際はどっちも正解で、当時のぼくは快感と罪悪感と不快感を同時に感じていて、非常にアグレッシブだった。感情ってプラスマイナスで割り切れるものではないんだなって思ったよ。欲情にはプラスマイナスしかないのに、不思議なものだよね。
「うーん、あなたって本当に変態」
それは褒め言葉かな。生まれたときからこうなんだし、悪いことだとはあんまり思わない。ただし、ご先祖様にいただいた体を傷つけるのはやめなさい、っていうのはいい言葉だと思うから、自傷は絶賛廃業中。犯罪行為も自粛中だし、別に人様には迷惑かけてないと思うんだけど。
「わたしは迷惑しているわ。あなたを見てると気持ち悪いもの」
気持ちが悪いならここに来なければいいのになあ、というのは禁句なのでぼくは黙る。
昔、気持ちが悪いならいじめてもいいですよ、って言ったら集団でこっぴどくリンチされて、されてる間はすごくよかったけど、その後再起不能になったことがある。その頃にはもう親は泣かなくなっていた。泣かない親の顔が唯一の救いだったのか、絶望だったのか、よく思い出せない。たぶんこれも両方正解。
「……あ、ごめんなさい」女史は髪を揺らして謝った。ぼくが黙っていたからだろう。
謝らなくていいよ、本当のことを言って、本当のことをして、それで謝る必要なんてないんだ。
「そうね、それはそうかも」
女史はあっさり納得して、謝罪を撤回した。
「ところで、今日もあなたのことを教えて。『死にたい』以外で」
と、しばらくして彼女が言い始める。女史の言い分はこうである。ぼくが女史の来歴を知り尽くしているのに女史がぼくを知らないのは不公平だ、だから教えろ、全部。
圧倒的に正しい言葉なので、ぼくは素直に従っている。
今日は、ぼくに恋人ができたときの話をした。クラスにいたニキビっつらの女の子に告白をした。彼女はぼくのことは好きでも嫌いでもなかったけど、まんざらでもない様子だった。でも、ぼくが彼女のニキビの質感の気持ち悪さに惚れていたことを知られて、後日絶交された。まだ小学生だったぼくの、淡すぎる初恋はそれでおしまい。それを聞いた女史は、くるくるとその目を動かして、少し何かを考えた。
「……もしかして、わたしの……」
女史は言いかけて、やめた。ああ、それはやめておいた方が賢明。ぼく、その言葉を否定する勇気はまだないんだ。否定できないんじゃないと思うんだけどね。それを瞬時に否定できるほど、ぼくの性癖は浅くない。
ぼくは平気でも、女史はきっと嫌だろうから、ぼくはそれを口には出さない。
でも、女史には、ひとつだけわかっておいてほしい。
ぼくがあなたをC女史と呼ぶのは、あなたの外見が、ぼくにとっては他愛ない個性の一つにすぎないってことを、あなたにそっと伝えるためなんだって。
学習された無気力の檻から女史を救い出すことができるなら、ぼくは終わりのない電気ショックを受けてもかまわない。たとえぼくが普通の人間であっても、ぼくはそう願うだろうと思う。普通だったら、まず、女史とは出会わなかっただろうってのは、言いっこなしで。
「ぼくは、あなたが好きだよ。C女史」
そのとき、生まれて初めて声を出したみたいに、ぼくが言った。好きという言葉にはたくさんの意味があって、ぼくの中で女史が好きだという気持ちはどういうタイプの感情なのか、まだわからなかった。でも、女史にとっての好きは、一個しかない。なぜなら、女史に好きだと言ったのは、世界中でぼくが一番初めで、たぶん一番終わりでもあるから。
彼女は呆れたように苦笑して、枯れた声でありがとうと答えた。
091226
純愛に近づこうとすると主人公が妙な性格になるのはこのサイトの仕様です。
この話、これで意味合いはちゃんと伝わるのかどうか、微妙に不安。
ていうか、自分でもよくわからない部分が多いかもしれない話です。
でもだからこそけっこう気に入ってる、かも。
あ、実在の人物や症例とは一切関係ありません。
すべてフィクションでファンタジーです。現実と混同しちゃだめだぜ。