まだ、女史には肝心なことを話していない。
ぼくは、そのことを口にすることを極端に恐れていた。畏怖していた。
あの事件以来、ぼくは変わった。
変わってしまった自分を、どうにか補修して生きてきた。
あの日のことを考えると、今でもめまいがして吐き気がする。
血の海の中に立っているぼく。ぼくが手にした小ぶりのナイフ。ぼくが殺した人の死骸。死体の顔の左半分は血にまみれていて、ぐちゃぐちゃだった。眼球が壊れていた。流れ出していた。気分が悪かった。彼女にはもう片目がないのだ、と思った。それはきっと不自由だ。でも、もうそんなことは何にも関係なかった。彼女は死んでいた。
絶叫。その声が自分のものだと気づくまでには時間がかかった。誰が殺したのかなんて考えるまでもなかった。しかしぼくにはその記憶がない。殺した瞬間の記憶がない。ただ、断片的な会話しか、思い出せなかった。
――離せ、とそのときのぼくは叫んだ。彼女は離さなかった。ぼくの腕を体をナイフを離さなかった。
離せ離せ離せ離せ、とぼくは絶叫して、そのまま彼女を薙ぎ払う。
そこから先が思い出せない。
思い出せなくても何の支障も謎もない。
ぼくが殺したのだ。
ぼくはそのとき、自分のことしか考えていなかったから。
自分が、ナイフで頸動脈を切って死ぬことしか。
それを母さんは止めた。
そして彼女は死んだ。逆上したぼくに殺された。
それだけだった。
言葉にしてみればそれだけの事象――どうして、ぼくはこの事実を女史に話すことをこんなにもためらっているのだろう。彼女は、ぼくが死にたがりで人殺しだということくらい、もうすでに知っていると思う。この病院に、それを知らない人間はいない。そもそも、人を殺していなければ、こんなところにいるはずもない。
ただ、ぼくが犯した罪が、母殺しだとは知らないだろう。女史はぼくを、快楽殺人犯の類だと思っているかもしれない。実際、そういう性癖がないわけではないぼくにとって、その勘違いはむしろ好都合である。ぼくは切実に、この殺人を彼女に知られたくないと思っている。どうして?――だって、これを話したら女史は悲しそうな顔をするに決まっているからだ。それに、ぼくは女史がどうも自分の母親に似ている気がしてならない。母親の片目が潰れていた、おそらくぼくがつぶした、なんて記憶に殊更こだわるのも、女史の存在があるからかもしれない。そんな自分が嫌だ。女史は女史。母は母。その線引きができない自分が、気持ち悪くて仕方ない。
それに、女史はきっと自分自身を母殺しだと思っているに違いない。彼女の前で母殺しの話をすると、彼女は自分を責めそうで、それが嫌だった。
実際、この病院の人間たちはそういう風に女史を扱ってきたのだ。女史のせいで女史の母が死んだ。おまえが殺した、おまえが生まれなければあの女は死なずに済んだ、と言った風に。
母親を直接切り刻んだぼくならばともかく、生まれてきただけで母を殺したなんて、言いがかりもいいところだ。ぼくは、そういった理不尽な言いがかりで女史を苦しめるこの病院の人間が許せない。あの事件以来「キレる」ことがなくなったぼくだけれど、ときどき理性が吹っ飛んでしまうことがある。それは、女史を口汚く罵倒された時だ。女史には罵倒される理由など一つもない。人殺しで変態で、どうしようもなく道を踏み外したぼくならばともかく、なぜ女史がそんなことをされなければならないのか、ぼくにはわからない。わからないから、キレてしまう。そして、その後は例の白い部屋でしばらく軟禁される。部屋には誰も来ない。部屋からぼくを出してくれるのは、いつも女史だった。女史がいなかったら、ぼくは白い部屋でそのまま死ぬのかもしれなかった。女史は悲しそうな顔で扉を開けてくれる。もうしないでね、と言う。もう、女史のために理性を飛ばすのは、暴力をふるうのはやめろと――女史は言うのだ。ああ、とぼくは言うけれど、心の中では頷いていない。病院のやつらの暴言から、女史を守りたいのだ。安っぽいヒーローを気取っているとあいつらは笑うだろう。それで構わない。
「わたしは何を言われたって構わない」と女史はいうけれどぼくは女史を否定されるのは許せない許せない絶対に許せないんだ。母さんを殺したときのぼくと同じくらいに許せない。ぼくは人殺しをしたことを後悔している。罪のない母さんを切り裂いたのは悪いことだ。その報いとして、ぼくはここにいる。十分に理解しているさ。
でも、女史をバカにする連中なんて死んでしまってもいいとも思う。それは激情だった。きっと、ぼくはいつか自分の感情におぼれてまた人を殺すのだ。だって、あいつらが女史を。女史を傷つけるから、悪いんだ。生まれたときから罵倒され虐待され忌み嫌われてきた女史に、ぼくは自分を重ねているのかもしれない。母を重ねているのかもしれない。だがそんなことはどうだっていいんだ。ぼくがあいつらを殺さないのは倫理的に間違っているからじゃない。女史がそれを許さないからだ。女史が許してくれさえするのなら、ぼくはいくらだって殺す。殺すことを不快だと思う回路は壊れている。血の海の中で泣いていたまともなぼくは、もういない。今のぼくは壊れている。あの日からずっと、そうなのだ。
その結果として女史と永遠に会えなくなるとしても、女史を罵倒されるのは絶対に許せない。女史は神様なのだ。聖女なのだ。ぼくを許してくれる。ぼくを愛してくれる。ぼくに愛されてくれる。それだけで彼女は絶対だ。そんな彼女を否定するなんて許さない許さない許すものか。
おまえらの命は女史の慈悲でそこにあると言うことを忘れるな。ぼくは激昂してそう叫んだ。白い部屋に入れられた。何の音も現象もないただの白い部屋。食べ物も与えられない生活が続いた。女史が助けに来た。空腹と吐き気とめまいで死にかけているぼくにとって彼女は天使だった。でもそんなことは関係なく、彼女はずっとずっと天使だった。彼女の背中には白い羽がある。誰にも見えなくてもぼくには見えるのだ。ぼくの背中にも同じものがあれば、おそらくぼくらはここから飛んで逃げることができる。そうすればもう誰も殺さずにいられるのに――ぼくはただそれだけが悔しい。
100221
狂デレがいる生活には潤いがあると信じてやまない気持ちをK君にぶつけてみました。普段の彼はもう少し理性的です。
狂デレさんの純粋かつ一方的な思いが好きです。
当たって本当に砕けてしまいそうなあやうい感じ、たまらないよね。