ぼくと彼女の、過去世界

 亜麻色の世界はゆっくりとあなたに埋没していきます。わたしはあなたを知りませんが、あなたを愛しています。わたしは異形なので人間の気持ちがわかりません。あなたもそうであればいいと、今はそう願っています。世界なんていくらでもあげますから、お願いです、そばにいてください。あなたのいない世界ではわたしはいつまでも異形のまま。あなたがいればわたしは、異形じゃなくて、『わたし』でいてもいいかもって少しだけ思えるのです。
 誰にも言わず死んでいくことをよしとする、むしろ理想とする、そんなわたしの人生ですが。あなたとならもしかしたら生きられるかもって、バカみたいに、期待してしまうんです。ゴミの分際でそんなことを言うわたしは滑稽ですか。笑えますか。あなたが笑ってくれるなら、わたしは、それでもかまわないのです。

 わたしは一気にそう言って、彼の手をぎゅっと握った。人の手に自分から触れるのは、それが初めてだった。
 そのとき、彼はたった一言、ありがとうと言った。

「さて――」

 わたしは、思う。
 K君という名の彼のことを。
 K君と出会った日を絶対に忘れない。
 K君がわたしに言った言葉を絶対に忘れない。
 そして、わたしは大好きな彼を恐怖する。彼が異常性癖の持ち主だからじゃない。彼が、わたしを好きだと言ったからだ。母を狂死させ、父を逃亡させ、その他すべての人々に疎まれたわたしの顔を、K君は拒絶しなかった。まっすぐにわたしを見て、目をそらさなかった。
 そんな彼は、わたしを誰よりも理解している。わたしは彼を理解できない。とても不公平だと思う。
 彼は自分の指を切り落としても快楽に浸れるようなマゾヒストで、気持ち悪いことが何よりも好きだという異常者で、そして殺人者である。彼は、自己の快楽を追求するあまり、人を殺した。それで、この場所にいる。わたしは彼の殺人について、よく知らない。たぶん、聞けばいくらでも詳しく話してくれるだろう。それはわたしが思っているような残虐な事件ではなかったのかもしれない。わたしはまだ、その事件についてK君に尋ねることができない。彼以外の人間にそれを聞く気も起こらない。わたしの外見について何もコメントしないK君も、わたしと同じように躊躇しているのだろうか。わからない。ただ、わかるのは、わたしたちはまだお互いに対して隠し事をしている、ということだった。
 でも、そんなことは関係なく、わたしは彼を愛している。

 かつてのわたしが思っていたことを思い出してみる。
 金持ちは金持ちとして生まれ死に。
 貧乏人は貧乏人として生まれ死に。
 狂人は狂人として生まれ死に。
 異形は異形として。
 人間は人間として。
 『わたし』は異形として。
 人間ではなく異形として。
 生まれて、死ぬのだ。
 そう思っていた。
 『わたし』は人間ではなく、単なる慰み者で、それが圧倒的真実だと思っていた。
 でも、K君はそれを否定した。
 『わたし』を、人間として認めて。愛して。許して――くれた。

 だからわたしは――彼のことを好きになってしまった。
 まあ、好きになるというのとは少し違うかもしれない。
 何せ、今までのわたしは人間ではなかった。
 人間としての感情を持つことすら、ほとんどなかった。
 そんなわたしが、いきなりまっとうな人間になれるはずもない。
 人間らしく誰かを愛するには、まだ早い。
 けれど、彼はわたしを好きだと言ってくれた――
 ありがとうと言ってくれた。
 それだけで、わたしはもう、死んでもいいと思ったのだ。
 だから、人を愛することすら知らないわたしは、それでも彼を好きになろうと、決めた。

「しかし、愛を知らないのに人を愛することはできない」
彼はそう言って、肩をすくめてみせた。
「だから、ぼくは女史に教えなければならないね」
「教える?」
「人を愛するということは、こういうことなんだって――この身をもって示してみせる」
「わたしを、愛してくれる?」
「そうだよ」
「わたしに愛してもらうために?」
「そうだよ」
「それって、なんだか矛盾しているわね」
「そうかな」
「そう。でも、あなたらしいわ、K君」
「ぼくは生まれたときから矛盾しかない、人間だからね」
「そうなの?」
「生きたいのに死にたがりで、愛しているのに殺してしまって、マゾヒストなのにサディストで、殺人鬼なのに狂人で――まったくもって、矛盾だらけさ」
「……そう」
「でも、女史のことは好きだよ。その気持ちに矛盾はない」


 彼は胸を張ってそう言った。
 わたしはただ、ありがとうと答えた。
 彼はいつだったか、人生は我慢大会だと言っていた。
 最後まで、すべてを我慢した人間の、勝ちなのだと。
 水の中で息を止めて生きていれば、いつか魚になることができる。
 それと同じで、地上でも息を止めて生きつづけることが大切なのだ。そう彼は主張する。
 不平不満を口に出さずに。
 ただ、黙って生きる。
 そうして最終的に、魚になりたいと望んでいる。
 彼がそういう風に生きるのなら、わたしも同じことをしようと思う。
 魚になるために、水中に沈んでは必死に息を止めて……ただ、祈るように青い空を見上げる。
 青い空と青い水には境界線がない。空も水も同じ。きっと、そこに境界なんて作る意味はない。
 きっといつか魚になれる。
 そう信じて、わたしは彼と一緒に沈んでいく。
 水底には、いまだ、何も見えない。



100405