ぼくと彼女と雨の音
死にたい、と口に出してしまうと、事実がどんどん加速して終わりに向かっていきそうだった。時折、こういう気分になる。黙ってうつむいてふるえるぼくに、女史は何も言わなかった。
女史の手がぼくの頭をそっと撫でる。触れられた部分から感情が伝染してしまう気がして、ぼくはそっとその手を払いのけた。
「ダメだ」
そう口に出してみる。何がダメなのだろう。たぶん、ぼく自身の精神のありようである。
君を愛してる。
でもこのままではダメだ。
世界はとても醜いけれど、あまりにも鮮明な女史を目の前にして、ぼくは世界の醜さを知覚できない。
どんどんダメになる。少しずつ、少しずつ、浸食されていく。震えが止まない。やめろ、やめてくれ。叫び出したくなる。もしかするともう叫んでいるかもしれない。
背後でコツコツと丸まった音が聞こえる。徐々に激しくなる雨が、窓を叩いているのだ。
その音に、ぼくの声はかき消されているように思えた。
弱々しく、ぼくはなにか囁いている。泣く子のように、女史に言う。
「ねえ、女史――好きだよ」
女史は何もいわない。
「好きだ、大好きだ、君が」
女史は頷いて、ぼくを抱きしめた。女史の温もりが伝わって、一気に背筋が冷える。
ぼくなんかに触ってはいけない。
君は、そんな不浄なものに触れてはならない。
「大丈夫、あなたはわたしを壊さない」
女史はあやすように耳元で言った。「そんなに怯えなくてもいい」
しかしぼくは思う。ぼくは女史を壊してしまう。女史はぼくに壊されてしまう。だってぼくは汚いのだ。どうしようもなく不吉なのだ。めちゃくちゃにわめいてしまったかもしれない。雨音がやけに大きく感じられた。
「ああ、ねえ、女史。ぼくは」
――死にたい。
いつも軽々しく口にする、日常的な言葉。
ぼくらを象徴する、ぼくらのすべてと言ってもかまわない、その単語が、今日はなぜかどうしても口にできない。それを口にすることは、今この場所では禁忌であるように思われた。
「ぼくらは、きっと、いつか終わるんだ」
終わることと死ぬことは同義じゃない。死にたいことと死ぬことが、まったく関係のない事象であるように。終わるということと死ぬということは別だ。ぼくは終わりたいのではなく、死にたいのだ。そして女史はおそらく、終わりたいのだ。だからぼくは彼女から離れられない。彼女の終わりを、ぼくが見届けなくてはならない。それはこの忌まわしいぼくに課せられた、たったひとつの使命であるに違いない。
「ええ、そうね」
受け流すように女史が言った。その言葉で、ぼくは終わってもかまわないと思った。君を愛してる、ともう一度言いたくなったが、あえて言わずにほほえんだ。雨の音はまだ、続いている。まるで、ぼくらの間に距離を作るために存在しているかのような雨音は、じわじわと満ちて部屋の中に溢れようとしていた。その情景をみて、ぼくは思う。音に色が付いていればいいのに、と。そうしたら女史の声ですら、このぼくの醜い世界にきれいな色をつけてくれる。そんな世界なら、死にたいなどと口にしなくても済むのかもしれない。
100908