ぼくとミーコちゃんの非自殺研究所
手首を切るという行為は案外合理的だ。これが指であれば傷口が生活の邪魔になるだろうし、胸や腹だと手に比べて出血が足りない。足は後々の処理が面倒である。どれだけ切っても骨と動脈にしかたどり着かない手首は、胸や腹よりもわかりやすい。切りたいという衝動に叶う概念の美しさが、手首・腕という部位には存するのである。
しかしだからといって――それはぼく個人が手首を切っても許される理由になりえるだろうか。
他人にばれなければいい、という気持ちもある。それはそれで正しいのかもしれない。誰も事実を知らないのなら、ぼくが手首を切っても切らなくても同じである。それなら、我慢せず切ってしまった方がよくはないか。
それでも結局は、自分を責めさいなむもう一人の自分という存在が、ぼくを思いとどまらせる。
切る、という行為においては、手首は合理的である。でも、傷口がやたらと目につくのはよろしくない。切りたいという衝動が過ぎ去ったあとも、手首の傷が視界に入るという事象は消えない。ぼくはぼくの手首を見るたび、傷を思い出す。切るという行為が必要ではなくなっても、傷は残る。もしも誰かとセックスすることがあったら、たぶん傷口を隠すことはできない。
だから、誰よりも未来の自分のために、手首を切るのはやめようと――今の僕は考えている次第。
まあ、ぼくとセックスできる相手なんて、この世界中をどれだけ探しても誰もいないんだけど。
だってぼく、筋金入りの変態ですから。
たぶん、セックスなんてしたら、加減が出来なくて殺してしまう。
「――と、いうお話。聞いてた?」
「あんまり聞いていませんでした。僕、三行以上の文章は読めないのですよ」
「君の言うことはけっこうおもしろくて残酷だよね。ぼく、わりと死にたくなっちゃった」
「それ、最初からですよね」
「うん」
そんな会話を終わらせて、ぼくはやれやれと息をついた。
今日は、女史と話しているのではない。当然といえば当然、二人っきりの空間など、この世界には存在しない。どこにでも、他者は存在する。女史はあまり他者とかかわらない――というか、他者が女史を避けている――のだが、ぼくはわりと社交的な生活を送っていたりする。今日の会話相手は、隣の部屋の女子であるミーコちゃんである。女史と同じく、本名とは全く関係ないあだ名だ。なんか猫っぽいから!という理由で同室の女に名付けられたらしい。一人称僕、敬語で慇懃無礼、髪の毛は異様なほどに長く、「こんなに髪の長い人間がこの世に存在するなんて!」みたいな感じである。彼女の個性についてはそれくらいしか知らない。病名には興味が持てない。というか、そもそもぼくは自分の病名を知らないし、自分の事情は誰にも語りたくない。
この病棟にいる以上、彼女も犯罪者なのだろう――それだけで、情報としては十分だ。ぼくらは隔離されているという点で同種である。だからこうして話もする。心を通じ合わせられる。たとえ、世間に出れば石を投げられリンチされ、大衆に殺されてしまうような外道だとしても。
「ミーコちゃん、ここ最近は何かいいこととかあった?」
「いいこと、という事象が何を指すのか不定です。僕はいつでもどこでも、そこそこに楽しい日常を送らせていただいていたりしちゃったりしますが、しかしそれはKさんにとっていいことでしょうか。違う気がします」
「違う気がします!って言われちゃうと何も言えないけど、ミーコちゃん基準の『いいこと』でいいよ」
ミーコちゃんは首をかしげて、トン、と指でこめかみを叩く。
「あれですね、茶柱が立ちました」
「それはよかったね」
「ええ、とてもよい出来事です。あとは、同室の淑女様が毎夜叫ぶことを自重するようになったことでしょうか。地味に寝不足だったので、非常にありがたいことです」
「うわ、その話はあんまり聞きたくないな」
ミーコちゃんと同じ部屋の『淑女』様は非常にアンビバレンツでアバンギャルドな女性である。誰にでも優しく、誰にでも厳しい。誰にでも平等でいて、誰にでも差別的。ぼくはあまり会ったことはない……というか、相手に避けられているようで、遭遇しない。ミーコちゃんの話に出てくる『淑女』はわりと分裂していて、そのときによってまったく違う人格と行動原理によって生きている模様である。極端な躁鬱病なのか、多重人格なのか、気分屋なのか。さっぱり不明だが、会いたくない女性であることは確かである。
「Kさんは、同室の男性はいらっしゃらないのですっけ」
「ぼくは二人部屋だよ。まあ、お隣さんはいるのかいないのかがわからないくらい静かだから、害はない」
「へえ、それはそれで怖いですね。Kさんが隣にいるのも、怖そうですが」
「おい、本人の目の前でそういうこと言うなよ」
「傷つきましたか」
「ああ、非常に傷ついた。慰謝料を請求したい」
「イシャリョーってなんです? 僕、世間知らずなのでよくわかりません」
「覚えておけよミーコちゃん、『世間知らずなので』はぼくが世界で一番嫌いな前置詞だ」
「ゼンチシってなんです? 僕、世界知らずなのでよくわかりません」
「世界知らず……」
世界で一番嫌い、という単語自体を否定する。おもしろい発想だ。
ぼく的に絶妙におもしろい返事をしてくれるミーコちゃんの貴重さだけは理解できた。
彼女の言語体系はいまいちよくわからないが、まあ、おもしろければいいだろう。
「ところで、今日は夕食の時間が遅くはないでしょうか。僕の脳内腹時計はもはやジリジリと鳴りはじめそうな勢いです」
「うん、腹時計は腹にあるべきものだから、脳内にはない気がするね」
そう答えつつ、ぼくは時計を見た。夕方六時半。一直線になった針が、少しずれた。普段の夕食の合図は六時十五分なので、確かに少し遅い。
「あのいかがわしい食堂の匂いを思い出すと、今日こそ羊の肉だと偽った人肉を食べさせられる気がします。普通の感性を持った僕としては、ぞくぞくしますね」
「ぼくは、超絶普通人間だからちょっとそういうのは勘弁だな」
「あれ、Kさん的には大歓迎ではないのですか」
「大歓迎なわけないだろう。ぼくを誰だと思ってる」
「口八丁嘘八兆のKさんですよね」
「あはは、そうだ、嘘です大歓迎です本当にごめんなさい」
知らないうちに人肉なんて食べさせられたら、ぼくは気持ち悪さが嬉しくてむせび泣くだろう。
大歓迎どころの話ではない。大、大、大歓迎である。
そのとき、奇妙に嫌なタイミングでベルが鳴り響いた。夕食の合図である。早く食堂へ向かわないと、怒鳴られたり夕食を没収されたりして大変である。ぼくとミーコちゃんは立ち上がり、少しタイミングをずらして食堂へ向かうことにした。ミーコちゃんの後姿は凛として美しく、脳内で、彼女で楽しいことをする妄想を繰り広げそうになった。例にもれず、食事の前にする妄想としては下劣だったので、途中でやめた。否、たぶん食事の前ではなかったとしても品性下劣極まりない。本人には絶対に言えない程度には、最悪である。まあ、ぼくも健全な成人男子だし、妄想くらいは自由にさせてほしいなー、とか思ったりする。あるいは、女史ではそういうことを考えられないので、他にはけ口を求めているのかもしれない。ミーコちゃんにこうして会いに来るのは、女史以外の女子と話しておかないと、女史でそういう妄想をしてしまいそうだからである……などという結論には至りたくないので、今日もぼくは自分をだますため、ミーコちゃんと楽しい会話をするのである。ミーコちゃんには少しだけ、悪いと思っている。黙々と前を見て歩くミーコちゃんを後ろから見ながら、肉料理が出されないことをひたすらに祈り、食堂まで歩いていった。途中でケチャップの香りがして、ああ、たぶんナポリタンだ、とぼんやり思った。ナポリタンに人肉が入っていないといいね、ミーコちゃん。
101106
勢いだけで新キャラを作り、勢いだけでシリーズの作風を変えてみるという試み。
たぶんKくんは、趣味さえ受け入れてもらえれば、誰とでもそこそこに仲良し。
スーラボでギャグを書いてみたい!でも無理!ってずっと思ってたんですが、こういう方向性なら行けそうかも。
あと、Kくんの言う『下劣な妄想』は例にもれずグロです。彼はエロいだけの行為に下劣という単語は使わない程度の紳士です……もちろん変態という名の。