【美野】と呼ばれる少女の欲望について

 死にたい、という単語はもはや人生のデフォルトである。物心ついた時には既に死にたかった。それを否定されることは、わたしという個体のすべてを否定されるのと同じ。でも、みんな肯定なんてしてくれなかった。ただ死ぬなと繰り返すばかりで、生きなければいけない理由とか、生きたくなるきっかけはどこにもなかった。
 静かに、人生は終わっていく。
 そんな当たり前の事実が、苦しい。
 この人生はもう終わらせてしまいたい。
 もっと新しい人生とか、楽しい人生とか、そういうものが存在するなら、わたしはそちらを手にしたい。
 死にたいわたしは捨てて、生きたいわたしになりたい。
 それが、わたしが望むすべてだった。

――そんな生活の中で、わたしは悪魔に出会った。
 悪魔は言った。

「私は、生きたいあなたには興味がない。死にたいとあなたが口にするのであれば、私にはあなたが必要だ」

 そんなことを言われたのは初めてだった。
 必要だと言ってもらえたのも、初めてだった。
 嬉しかった。
 わたしは、彼にとって価値のある人間なのだ。
 泣き出しそうになった。
 世界に光がさした。
 わたしのまっくらな世界を、彼が照らしてくれた。
 彼はわたしを抱きしめた。人間の体温がないかのように、冷え切った体で。
 わたしの手から、鋭く研いだカッターナイフが落ちた。
 ああ、わたしはこの人のためにここにいよう。
 彼はわたしに、ひとつだけ頼みごとをした。
 彼にとって、そのことは世界のすべてなのだ。

「死んでください。私の目の前で。今でなくていいから、死にたくなったら、私の前で死んでください。それで私は満たされる」

 わたしは、ほほ笑んで頷いた。
 その瞬間から、彼――長芳清五は、わたしの生きる目的になった。



****



 そして、わたしは今、彼と一緒にここにいる。ここ、というのは病院である。犯罪者用の精神科病棟。限りなく監獄に近く、しかしどこか自由を残した場所。わたしと彼がどうしてここにいるのかは、語らない。ここにいるという事実、それだけがあれば十分だ。過去を暴くなんて、悪趣味。過去などいらない。現在だけがあればいい。
 今日もわたしは、夢心地な世界で「死にたい」を口にする。
 ああ、しかし、わたしは死なないだろう。
 つらいことが死という願望に直結するとしたら、今よりずっと死に近かったときはいくらでもあった。
 そのとき死ななかったということは、きっともう、死なない。
 あの頃よりつらい時間など、訪れるはずがない。
 もしもそんなものが訪れるとしたら、わたしはそのとき、今度こそ死んでしまうのかもしれない。
 ちゃんと死ねるだろうか。わからない。
 ただ、今のわたしは『彼』と同じく、自死を愛している。
 自ら死することの美を知っている。
 生物として矛盾する性質を、開花させた者たち。
 自殺者と呼ばれる彼らは、特別な存在なのだ。
 姿形が正常でも、ヒトという規範から大きく外れている。
 生きたいという種族の意思に、逆行する行為。
 ささやかな、ヒトという種への反逆。
 誰よりも儚いテロリストたち。
 わたしも――彼らに準ずる存在。
 そして、わたしの隣にいる彼は、彼らを生みだそうとする存在。
 長芳清五。通称『清浄機械』。
 人の世を、自殺で清める機械。
 他人の自殺を糧とする、自殺者よりずっとずっと歪んだ異形。


――清五さんは、わたしを視線で捕らえて、いつものように冷たく笑んだ。
「美野さん、こんにちは。……まだ、生きていらっしゃるのですね」
「ええ、残念ながら」
いつもどおりの挨拶を終わらせて、彼はすぐに無表情に戻る。
その顔が彼のデフォルトだ。
「ねえ、清五さん」
わたしは、彼に問いかける。
「人生って、たのしい?」
彼はもちろん、表情を変えず――
「ええ。この世に自殺がある限り、私の人生は最高に楽しいです」


 その答えは、世の中の大人たちが聞いたら卒倒してしまうのではないかと思うくらい、不謹慎だ。
 でも、そうじゃない。不謹慎、という無責任な言葉では、何も解決しない。
 彼はそういう風に生きてきて、これからもそういう風にしか生きられなくて――その生き方に至るまでに、きっと、なんらかの葛藤があって。だから許されるなんて思わないけど、不謹慎なんて言葉で片付けられるんなら、この人は、こんなに必死にわたしを――自殺志願者を必要としたり、しない。
 生まれてしまった欲望を、否定することに何の意味があるだろう。どうやっても消えない欲望を背負って、それを否定されたら狂ってしまうくらいに、渇き、求め、がむしゃらに前へ進んで。
 その行為の先にあったのが犯罪で、不謹慎で、殺人行為で、越境行為だったとしても、わたしは彼を断罪するのが正しいとは思わない。
 彼は、異常者だ。いいだろう。
 変態だ。それもいい、かまわない。
 犯罪者――かどうかはまだ、わからない。容疑者。そう、容疑者だ。
 たとえば、吸血鬼は血を吸わないと生きていけない。
 それと同じで、彼は他人に死んでもらわないと、生きられない。
 そういう欲望を持って生まれてきた。
 被害者、と仮に呼ばれている『その人たち』は、彼に殺されたのではない。
 自殺したのだ。
 彼の目の前で。
 実際、彼の見てきた死人たちが、彼に殺されたなんて記録はひとつも残っていない。
 全員、自殺だ。
 ただ、その数が異常である。なんらかの殺人である可能性しか考えられないほど、多い。
 彼がこの場所に拘束されている理由は、それだけ。
 だから、彼は殺人犯ではない。
 あくまで、容疑者。
 怪しいだけで、犯罪には至っていない――しかし、あまりにも怪しすぎるがゆえに、拘束される。
 『清浄機械』などと、人間ではないかのように揶揄される。
 それだけの、異常な存在。それが清五さん、だった。


「何を、考えているんです?」
清五さんはそう言って、わたしの肩を小突いた。
「何が異常で、何が正常かということを、考えていたんです」
「排斥されたものが異常、排斥するものが正常です。いつの時代も、それだけは変わらない」
かつて世界から排斥された『清浄機械』は、淡々とそう言った。
「わたしは、異常ですか?」
「それを決めるのは私ではありませんから、何とも言えませんね」
「誰が、決めるの?」
清五さんは、困ったように首を傾げてから、こう言った。
「あなたに決まっています。あなた以外のすべてが、あなたを異常と定義したとしても、あなたが自身を異常と定義しなければ、あなたは正常でいられる」
「それは、詭弁ではないの?」
「自分を異常だと定義するのは簡単です。正常でいることは、そういう意味ではとても困難だ。だからこそ、正常という概念を、そこに付属する価値を、人は追い求めるのでしょうね」
「わたしは、自分が正常なのか異常なのか、よくわからない」
「そんなもの、どちらでも同じことですよ」
彼はそう言って、わたしの肩を抱いた。
「あなたはただ、あなたでいればいい――そう思いませんか」
「清五さんがそう言うなら、わたしはそれでいいと思う」
「では、それでいいんです。面倒なことを考えても、時間の無駄です」
 清五さんの手はやっぱり冷たかった。
 もしかすると、彼は本当に機械なのかもしれない。
 それでもいいや、とわたしは思った。
 機械であろうと、人間であろうと、殺人者であろうと――長芳清五はわたしの隣にいてくれる。
 正常も異常も関係ない。
 それだけが、わたしにとって必要な、価値だ。
 わたしは、ゆっくりと目を閉じる。
 自分が泣いているような錯覚に陥ったけれど、涙は流れなかった。
 清五さんは、泣いたことがあるだろうか――ふと、そんなことが気になった。
 今度、訊いてみよう。そう決意をして、わたしは彼の隣で深呼吸をした。



101216



長芳清五と美野ちゃんのお話、そのいち。
美野は「みの」と読みます。
この二人の話はしばらく続きそうな感じです。