【 冬京 】

 智恵子は東京に空がないと言ふ、
 ほんとの空が見たいと言ふ。

 そんな有名な一節を思い浮かべながら、私は数年ぶりに東京の地に降り立った。
 しばらく田舎にひきこもっていたので、この排気ガスの匂いはとても懐かしい。

 東京には空がない。
 というよりも、私はこの場所には心がないと思う。
 電車にぎゅうぎゅうに詰められて運ばれていく人間たちは、みな一様に、昼食にはコンビニ弁当を買い、飲み屋で下衆な話題で笑いあい、帰って家族と退屈な話をして、夜のテレビ番組を流しながら、いつのまにか眠っている。もちろん、その日常には多少の違いはあるだろう。その違いというのは誤差の範囲を出ないものである。昼食がおしゃれなカフェであっても、家に家族がいない一人暮らしでも、そんなのはたいした差ではない。少なくとも私はそう感じる。

 まるで大量生産されたかのように、人々は似たような暮らしを送る。
 もちろん、それは都会でなくても同じことなのだけれど……都会、特に東京では、その「大量生産」と「大量消費」の無為な連鎖が目につく。
 そういう連鎖を見ていると、自分の心が死んでしまったような気持ちになる。
 大量に作られ、大量に消費され、大量に消えていく私たちに、命なんて概念はないのではないか、という感傷である。
 無機質な街、無機質な私たち。そして、無機質な日常。
 誰もが同じものを共有していて、つまり私たちはある意味ではひとつの大きな生命体なのだ。
 個を失い、心を失い、ひとつになる。
 歪にあわさり、日々形を変えていくクリーチャーの名を「東京」というらしい。

 私たちは東京を構成するための歯車であり、東京とはひとつの生命である。ひとびとがひどく似た日常に落ちこんでいくとき、私たちが命と心を失うとき、東京は生き生きとその構成物を光らせる。東京タワーのライト。秘すべきものまで容赦なく照らす人工蛍光灯。歌舞伎町のネオン。24時間休むことのないコンビニ。深夜にまでせわしなく動きつづけるコンビニ店員。私たちは東京に消費され、そして東京を消費する。東京という大いなる生命のなかで、歯車たる私たちはぐるぐると日常をめぐりつづける。

 ……電車のくる気配がして、私は現実に意識を引き戻した。
 山手線のホームは、人があふれているのにひどく冷えた空気だった。
 こんなに冷たいなんて、やはり私たちは死んでいるんだ、とひねくれた子供のような感想が浮かぶ。
 電車が滑りこんでくる瞬間には、ホームに立っている人間たちがそこに飛び込むのではないかと、一瞬怯えてしまう自分がいた。
 歯車がひとつくらい失われたとしても、東京は死なない。
 しかしながら、歯車がひとつ失われれば、他の歯車たちはざわめくだろう。山手線は止まるし、帰宅も遅れ、歯車の日常には支障が出るだろう。そして、歯車はいつかひびわれ、錆び、地に落ちるのだということも否応なく思い出されなければならぬ。東京の歯車たちが、心というものの存在を思い出すのは、そういう気分の悪い非日常に出会ったときなのかもしれない。

 ため息をつきながら、こんなことを考える自分は、歯車という役にはふさわしくないように思った。こんな歯車は、取り外し、錆を隠すための銀メッキをほどこしてから、うつくしい金色のチェーンにつないで、ネックレスにでもしておけばいいのだ。図書館のすみで毎日静かに本を読む、黒髪の静かな美女の首元に、ちょこんと載っかって。私は東京の心を少しだけ残しながら、東京でない生命になりたい。
 ホームを走り抜けた電車を見送って、私はいつまでもその場に立ち尽くしていた。
 私を首元に飾ってくれる美女は、まだこの冬の東京には、現れない。



2014年4月14日