【 小雨少女 】



 近頃、よく雨が降る。梅雨にはまだ早く、春が来て空気があたたかくなりだした矢先だというのに、雷雨、竜巻、突風。天気予報はさんざんだ。
 少し前までは、雨が降れば傘をさせばいいと思っていた。常に折り畳み傘を持ち歩けばたいていの雨はしのげると。
 けれど、最近は妙に風が強い。傘をさすと、さしかたが悪いのか、強度の問題なのか、すぐに折れてしまう。壊れた傘を持ち歩くのもなんだか恥ずかしいし、壊れるたびに傘を買うのも癪だ。それで、傘はできるだけささないようにしようと思いはじめている。もっとも、レインコートを着るのも同じくらい恥ずかしいので、雨風の強い日には、雨の中を走って帰宅する回数が増えた。風邪をひく可能性は増すが、しかたがない。

 今日も例に漏れず、走って帰ることになりそうだった。クリニックの待合室のテレビではニュースが流れている。「竜巻注意報」、「雹を観測」、「大荒れ」というような、異常気象を示す文字ばかりが踊っていた。傘は持ってきているが、今日は雨よりも風のほうが強い。この間、傘を壊してみじめな思いをした人間としては、やはり、傘はささずに帰ろうと思うのが、自然な流れというものだ。

 診察はすぐに終了した。わたしの頭のなかは、それよりも雨と風をどうしのぐかで埋まっていた。時計を見るとちょうど正午だ。家までは一時間もかからないのだが、一時から聞きたいラジオがあるのだった。
「風が強いですからね、すぐに帰らなくても、待合にいてくれてもいいのですよ」
受付嬢がとってつけたような笑顔でそんなことを言ったが、待合室は患者でいっぱいだった。午前中から受付を開始するこのクリニックは、今のような昼時に、混みあい具合が最高潮に達する。風がおさまるまでここにいるというのも悪くない案ではあるが、今日は外に出てしまうことにした。

 小雨だった。道路標識がきしむほど風が吹いているが、雨は気にならない程度しか降っていない。
 わたしは迷わず走りだした。
 そういえば、このような小雨の日に、うつくしい少女に出会ったことがある。
 走りながら雨を全身に受ける感触で、ふと、その精霊のような少女を思い出す。
 その日、わたしはまだ、傘が風で壊れるものだということを知らず、悠長に傘をさして歩いていた。少女は、そんなわたしとすれ違い、すこし笑いながらこう告げた。
「おねえさん、傘をさしているの? もったいないわね」
「もったいない?」
見知らぬ少女の言葉に対し、返答をする必要性はなかったのだが、そのときはなぜかそう問い返してしまった。
「だってね、雨はこんなにもわたしたちにやさしくしてくれてるのよ。人間とは大違い」
「…………」
この子はあたまが少々おかしいのだろうか。そんなことを考えつつ、わたしは少女を見ていた。少女はうっとりとした表情で続ける。
「傘なんてものは無粋。レインコートなんて拒絶の象徴みたいなものよね。善意で話しかけてくれた他人に対して、無言でにらみ返すような非道な行為。そうは思わなくて?」
「そうかもしれない」
わたしは何を思ったか、その少女を完全に無視することはしなかった。曖昧な肯定の言葉を返しながら、気づけば傘をたたんでいた。なぜそのようなことをしたのか、今の自分にもよくわからない。
 少女は雨に打たれながら、ずっとそこに立っていた。
 わたしは、そんな少女を眺めながら、傘をたたんだまま、小雨のなかを歩んでいった。それまで疎ましく思っていた雨は、体に触れてしまえば、ここちの良いミストのようだった。
 少女の言うとおりかもしれない、と思った。
 人間が日常的に発する暴言にくらべ、小雨のなんとやさしいことか。
 そんな小雨を拒絶するわれわれの、なんと愚かで潔癖なことか。
 その日、わたしは家にあった折り畳み傘をすべて捨ててしまった。
 翌日はちょうど、燃えないごみの日だった。些細な偶然ではあったが、運命のめぐり合わせのように思った。

 それから十数年が経過した今でも、小雨の日には、その少女が道に立っているような気がして……どうしても、いろんな理屈をこねながら、傘をささずに歩くことを選ばずにはいられないのだった。傘が壊れるとか、レインコートが恥ずかしいとか、そんなのはあとづけの理屈にすぎない。
 ただ、わたしは、雨のなかであの少女をもう一度見てみたい。彼女に無視されたくない。次は、わたしが彼女に話しかけて……あの笑顔で答えてもらいたい。
 「そうかもしれない」などという曖昧な返答はもうしない。
 わたしは、あの子と話がしたい。
 だから、こうして小雨のなかを走って帰る。

 スニーカーで駆けながら、わたしは小雨の風景を少しだけ振り返ってみた。
 さらさらと降る雨はとてもやさしく、まるで笑顔で誰もをゆるしてくれる聖人のようだった。
 そこにわたしの少女はいなかったが、なんだかとても満ち足りた気持ちだった。



2014年5月9日