性的なものを忌避するあまり、醜い本性を表してしまう人というのはいるものだ。そういう人間にとっては、性的なものこそが世界でもっとも醜いと捉えられているのかもしれない。しかし、性行為なくしてこの世界の営みは行われない。仮に、清らかな性行為と穢れた性行為があるとするならば、そのふたつを隔てるものはなんだろう。
「浮気や不倫を絶対に許さない、潔癖症の人っているじゃない?」
美玲はそう言って、プカプカと白い煙を口から吐いた。わたしは喫煙者が苦手なのだが、美玲が吸っているタバコは、あまり穢らわしく思わない。彼女自身が非常にうつくしく、高潔だからだろうか。上の空でそんなことを考えるわたしに向かい、彼女は語りかける。
「浮気や不倫はたしかによくないかもね。でも、そういう潔癖症に限って、家での性行為を制限したり、自慰行為まで監視してやめさせたりするわけ。もちろん、風俗も浮気のうち。そういうのって、とても気持ちが悪いと思わない?」
人間の欲望を、理性で制御することはむずかしい。自分で制御することすらままならないものを、配偶者とはいえ、他人に制限されるというのはたしかに気持ちが悪いかもしれない。
「そんなにセックスが嫌いなら、結婚するなよって思わない? ま、人んちの事情なんて知ったこっちゃないけどね」
身も蓋もない言葉での強引なシメ。美玲は、わたしになにかためになることを言ってほしいわけではない。ただ、話したいだけ。発散したいだけ。だから、わたしはなにも言わない。潔癖症の人とやらのことには、あまり興味がなかった。
 美玲の、脈絡のないストレス発散はつづく。
「日本って病気なのかもしれないよね。わたし、思うんだよね。性行為って、子どもがほしい人ならだれでもやってることだし、隠す必要なんてぜんぜんないよね。でも、汚れたこととして隠蔽されて、断罪されて、制限されて。まるで、やっちゃいけないことみたい。性行為よりも、そういう裁判官みたいな人たちのほうがよっぽど気持ちが悪いよね」
そう言われて、わたしは想像してみた。すべての人が裸で街を歩き、セックスしたい人と、その場で交わっていく光景を。子どもがほしいのに相手が見つからないなんてことは起こらない、欲望のまま、誰もが誰もと交わることのできる異世界を夢想した。
 それはとてもおぞましい想像だったかもしれない。想像してはいけないものだったかもしれない。しかし、美玲にしてみれば、そういうものこそ、理想的な世界なのだろうか。
「わたし、そういう裁判官みたいな、性の支配者みたいな、何もかもを思い通りにできると思ってる人とだけは、恋人にも友だちにもなりたくないな。気味が悪いでしょう? 携帯電話のなかみとかも覗かれちゃうかも」
「それは、そうかも。そういうのは対等の関係じゃないものね」
ようやく、わたしは言葉を発することができた。何も言わなくてもいいかと思ったのだが、肯定できる部分は肯定しておきたいと思ったのだ。
「ね、あなたはそんなふうにはならないよね。わたしと、対等の友だちでいてくれるよね」

――ああ、わたしはまた嵌っている。このルーチンに。美玲のロジックに。

 ふと、そういう思考が浮かんだ。美玲は、『裁判官みたいな人とは、恋人にも友だちにもなりたくない』と言った。しかし、その美玲の言葉自体が、裁判官の発想なのだとわたしは気づいている。この言葉を受け、肯定したことで、わたしは美玲を裁く権利を失う。美玲は、わたしという存在を呪いのように定義して、理想の友だちに仕立て上げていくのだ。もしもわたしが美玲の行動を咎めたなら、その時点で美玲はわたしを責めるだろう。約束が違うと言い立てるだろう。それこそが彼女の手法。
 彼女こそが、狡猾で無自覚な裁判官だ。
「もちろんだよ。わたし、美玲と同じ考えだから。そんなふうにはならないよ」
口元にはりついた笑みを見せつけつつ、そう宣告した。わたしは彼女の奴隷なのかもしれない。しかし、それでもいい。日本は病気なのだと彼女は言った。きっと、わたしも病気なのだ。誰かを性的に束縛したいと思うことが病気なのだとしたら、誰かに性的に束縛されたいと思うこともまた、病気なのだろう。


20160223

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