彼の青春の色彩



 全身がまっくろな服装というものは、この国においては否応なく目立つものらしい。
 すくなくとも、中学生や高校生の場合、そういうものは「中二病」と言われたりする。
 黒でかためた喪服というのも特殊なときに着るものであるし、たしかに、普通の街を歩いていたら多少は目立つだろう。
 だが、黒という色は、色のなかではかなり地味な部類でもある。
 着こなしによっては、全身が黒でも、人ごみにうまくまぎれてしまうことは可能だろう。

「あの、次の『人間行動学習論』の教室はここでよいでしょうか」

 その日、教室の一番後ろの机で落書きをしていたわたしは、声をかけられて振り返った。
 そこに立っていたのは、まさにまっくろな男子であった。
 彼には気配というものがなかった。
 普通、自分の真後ろに立たれたら、人はその気配に気づくものだろう。
 わたしは特に、そういった他人の気配というものに敏感であったので、彼が急にわたしの耳元で問いかけを発したことに、たいそう驚いた。

「あ、ああ。そうですね、『人学』はこの教室ですよ」

 落書きを手で隠しつつ、わたしはそう言って愛想笑いをした。
 人と言葉をかわすのは久々だった。
 わたしは、現在四回生であるにもかかわらず、取り残しの単位が多い。この教室で行われる『人学』も、卒業するために必死でとっている単位のひとつだった。主な受講者は一回生であるので、同学年の知り合いはほぼいない。孤独な授業である。

「隣りに座ってもいいですか?」
「ええ、どうぞ」

 どうせ知り合いなど来ないし、退屈な内容だしで、授業中も落書きをするだけのつもりだった。一緒に授業を受けてくれるのなら、心強いかもしれない。あわよくば、友人とはいかずとも、知り合いになってくれればいいという下心もあった。
 大学において、人脈の形成というのは、実は勉学よりもずっと重要なファクターであるということに、わたしは最近ようやく気がついていた。勉強を頑張ったところで、本人にとって益になることは非常に稀だが、友人や先輩が多くいれば、バイトを紹介してもらえたり、運が良ければ就職先を見つけられることもある。一人ですべての講義に出席してノートをみっちり取るよりも、友人同士で連携してノートを集めた生徒のほうが高評価をもらえることもざらにある。また、卒業後に友人をつくることは非常に困難なので、社会に出てから寂しい思いをしないためにも、友人というのはつくっておいた方がいい。
 まあ、今更こんなことに気がついたところで、サークルでは幽霊部員だし、同学年の知人たちは論文、就活、バイトで散り散りになってしまったしで、結局のところ、まともな人脈なんてものはまったく形成できないのだが。

 黒尽くめの彼は、首元まであるタートルネックのシャツを着ていて、ズボンもみっちりとした長めのものを履いていた。高校生と言われても違和感のない若々しい外見から察するに、おそらくは一回生なのだろう。

「…………」
学校で他人と話すのが久しぶりで、話しかけるべき言葉が見つからなかった。

「先輩は、」
と彼は言った。なんだかぼそぼそした声なのに、何を言っているのかははっきりとわかる。不思議な声だった。
「ぼくに似ていますね」
「え?」
 何を言われたか、その言葉の意味が飲み込めなかった。
 そのとき、一瞬彼の姿が揺らいで、闇に消えたような気がした。

「大学なんてくだらないって思っていますね。四年間通ったけど、たいしたものが見つけられなかったと。きっと、そのとおりなんです。みんな、きらきらした青春を目指してここへやってくる。でも、最後にたどり着くのは、就職活動をしなければいけないという強迫観念と、恋愛をしなければならないという正体の見えない焦りと、ひとりではいたくないという強い気持ちです。まったくもって、くだらない場所です。一時的に楽をしたいだけの人間たちが、群れるだけの」

 そう言った彼の目はなんだか、攻撃的な言葉の内容とは裏腹に、やさしい色をしていた。
 その矛盾がわたしを強くとらえた。
 『人学』の授業の間も、わたしはずっと彼のことを気にしていた気がする。

「きみの名前は?」

 授業が終わって、わたしは彼にそう尋ねた。

「ぼくの名前は、畑山秀介っていうのです」
 その自己紹介の瞬間、彼は一瞬、わたしから目をそらした。
 なんとなく、その名前は嘘だと直感した。

 後日、畑山秀介と、『人学』に出没する黒尽くめの男子について調べてみた。
 畑山秀介は、もうこの学校にはいない学生であった。
 数年前、サークルの飲み会で急性アルコール中毒を起こして死んでしまったらしい。
 黒尽くめの男子は斉川恭輔といって、わたしと同じ四回生。畑山の友人であった。
 畑山が死亡してから、ずっとああして黒い服を着ているということで、学内では有名だった。
 その日から、わたしは彼の言葉を思い出しては、目のなかであの黒色が明滅するような気がするのだ。
 彼は何を思って、あんな言葉を口にしたのだろう。
 あの黒が彼の青春の色彩なのだとしたら、なんと悲しい色だろうか。
 
 彼は、大学なんてくだらない場所だと言った。わたしもそう思っていた。
 しかし、彼はとてもやさしい声をして、一回生の集まる教室で、気配を殺して、生きてきたのだ。
 わたしがただなんとなく浪費してきた四年の月日のなかで、彼はあんなふうに……
 
 つぎに『人学』の教室に彼がやってきたら、今度はわたしから話しかけてみようと思う。
 今度は、人脈作りだとか、そんな理由ではない。
 わたしの青春の色を決めるために。そして彼の本当の色を知るために、だ。


20140616