今日もわたしは、レモン味の飴をかじりながら電車に乗る。
学校までは三十分きっかり。
座れたら推理小説を読むけれど、座れなかったらつり革を持ったまま寝てしまう。
学校は、季節を問わず、なんだか湿っていて暑苦しいイメージがあって苦手だ。でも、この電車に乗っている時間はとても好き。
今日は、座ることができたから、文庫で買ったアガサ・クリスティーを読む。手作りのブックカバーがしっくりと手になじんで、幸せだ。
土師ノ里駅に着いた時、隣に男性が乗ってきた。見たことのない顔だった。土師ノ里駅というのは非常に人が少ない駅であり、こんなふうに人が乗ってくるのはめずらしい。
片眼鏡をしていて、髪にはすこし白いものがまざった、清潔そうな初老の男性だった。
老いてはいたがうつくしい風貌で、外国の映画にでも出てきそうだ。
すこし、見とれた。
「きみは、本が好き?」
片眼鏡の男性がわたしに話しかけているということに、数秒してから気がついた。
「は、はい」
無視しようか悩んだが、答えてしまった。意図は不明だが、悪い人には見えなかったから。
「読書はとってもすてきなものだ。どんどん読むといい。ただし」
「ただし?」
彼は演出のように間を置いてから、
「読みすぎてはいけない」
と言った。
「どうして?」
と尋ねると、彼は人さし指をぴんと立てた。その動きもやはり男優のようにキレがあって、はっとする。
「見てごらん」
人さし指が、わたしの方を向いた。正確には、わたしのくちびるの方を。一瞬どきりとしたけれど、彼はくちびるに触れようとしているわけではなかった。
「ぱちん」
と、彼が口で言った。間の抜けた擬音に気を取られて、異変に気づくのが遅れた。
口の中のレモン飴が消失していた。
「飴が……」
とわたしが申告すると、彼はにっこり笑ってこう言った。
「ぼくの力で飴を消したんだよ。びっくりした?」
なんだか、口の中がピリピリとしている気がする。ゆっくりと口を開くと、種明かしのように、黄色い電波が外へと逃げていく。どうしてそれを『電波』だなんて思ったのかわからない。そんなもの、見たことないはずなのに。
「きれい……」
わたしの感想を聞いているのかいないのか、彼はまた人さし指をわたしに向けて、「ぱちん」。
今度は、わたしの読んでいた本が消えていた。手が、ピリピリと心地いい刺激に包まれる。
「ほ、本が、消えてしまいました」
「大丈夫。今、返すから」
彼が「ぱちん」とやると、わたしの手のなかに本が戻ってきた。しかしながら、それはわたしの読んでいたアガサ・クリスティーではなく、ディクスン・カーになっていた。黄色い電波が、はっきりとわたしの手を包んで、霧散していくのを見た。
「あなたは、いったい何者なのです?」
わたしは問わずにはいられなかった。本がすり替えられてしまったことなど、瑣末なことだった。本はまた買えばいい。しかし、彼にこれを問えるのは今しかない。
「ぼくはね、電波使いだ。もともと電磁波の研究をしていてね、そういう本ばかり読んでいたんだ。今のきみみたいに、電車のなかで本を読むのが大好きだったんだ。家に帰ってもずっと読んでいた」
「それで、どうなったんですか?」
「特別なことなんて何もしていない。ただ本を読んでいただけで、ある日突然、『こう』なってしまったんだよ。不条理だろう?」
彼は本当のことを言っているのだろうか。なんだか信じられない話だった。でも、たしかに彼は電波を操るらしい。飴が消え、本がすり替わる。こんなこと、マジシャンでもできるかどうかわからない。
「だから、きみも気をつけるといい。本ばかり読んでいると、ぼくのようになってしまう」
最後に彼は、手でピストルの形をつくって、おおげさな動作で「ぱちん!」とやった。
ドン!と大きな音がして、電車が止まった。
車内にはアナウンスが流れはじめた。急な落雷につき緊急停止。安全の確認のためにしばらくこのまま――というような内容だ。
「今の落雷も、あなたが――」
あなたがやったんですか、と問う声は、途中で消えた。
もう、彼はいなかった。
電波使いは、この電車から消失していた。
このぶんだと学校にはしばらく行けなさそうだと気づいて、お気に入りのブックカバーに包まれた新品のディクスン・カーを読むことにした。あの電波使いはわたしの心を電波でくみとって、読書の時間を与えてくれたのだと思ったからだ。
20140708