自分で言うのも妙な話だが、わたしは昔、純真無垢な子供だったのだ。何の汚れも知らない。偏見を持たない。穿った見方をしない。そんな子供だった。
それが今ではどうだろう、世界中のすべてに呪詛を吐きかけたくなるような、誰も彼もの言うことをすべて疑ってかかるような、そんな歪んだ性格になってしまった。
現在は大学四年生。本来は就職活動をしなければならない年齢。でも、どうしても、前に踏み出すことができなかった。汚れてしまった自分が、社会の中へ歩み出すと、汚れを撒き散らしていくような気がした。
わたしが唯一、やすらいだ自分でいられる場所は、学校図書館の地下室だった。地下室は非常に薄暗く、需要のない本が乱雑に置かれている不気味な空間である。幽霊が出るとか、死体が埋まっているとかいう噂もある。わざわざ地下まで来て調べ物をするのは、まじめな院生くらいのものだった。
四年生になったばかりの頃だったか、そんな地下室で不可解なものに出会ったことがある。それは人間の少女の形をしていたのだが、人間ではなかった。人間にはありえない特徴がひとつあったのだ。
その少女は、額に蜘蛛のような目をひとつ持っていた。
読んでいた本から顔を上げると、少女がわたしの本を覗きこむようにして、机の上にちょこんと腰掛けていた。
「こんにちは」
少女は歌うようにあいさつをした。ビー玉でも落としたような、うつくしい声だった。少女の目はわたしの心の奥底を見透かしているようで、非常に恐ろしかったが、一方でわたしはこの少女に非常に好感を抱いていた。どうしてだかわからないが、親近感のようなものだろうか。
「心が汚れてしまうことは、とても痛くてつらいこと」
少女は相変わらず妙な口調で、そんなふうに言った。
「でも、この世界で生きていくということは、そういうこと」
たしかにそうだ。正論すぎて、逆に陳腐な響きだ。純真無垢な人間は、この世界ではまっとうに生きられはしない。何も言えなかった。
少女は一瞬照れたように肩をすくめて、額の目を強調するように動かした。
「もし、あなたが望むなら、痛くないようにしてあげる」
「どういうこと?」
わたしは初めて言葉を発した。もしも、この痛みから解放されるのなら……わたしは、うまく生きられるかもしれない。
「この、」
と彼女は額の目を指した。
「『目』をあなたにあげる。これは、心の痛みを消してしまうもの。無痛症の証」
突拍子もない言葉だった。わたしに、額に不気味な目を持って生きていけというのか。それは、悪魔の誘惑だろうか。それとも、何らかの詐欺だろうか。だが。
わたしは、汚れた心の痛みを、消したい。
どれだけ痛くても、痛みを感じない体になりたい。
無痛症。
心の無痛症。
それはわたしの望むものではないか。
気づくと、少女はいなかった。わたしは少女にどう答えたのだったか、覚えていない。ただ、わたしはその日から、汚れた痛みに苦しむことはなくなった。鏡を見ることもなくなったけれど、そのことはわたしの人生においてたいした意味を持ってはいない。わたしは、純真無垢ではなくなったが、純真無垢な人間と同じように生きる権利を手に入れた。
身体的な無痛症の患者は、自分の痛みに気づくことができないため、体からのSOS信号をキャッチできず、重篤な状態に陥ってしまうことがあるらしい。心の無痛症になったわたしにも、そのような現象は起こりうるのだろうか。今は分からないが、ただ、心はやすらかである。わたしの人生は、今、ようやく始まったのかもしれない、と思う。
20140715