私は、毎日、広いインターネットの海に一言の言葉を吐き出すことを日課としていました。
140字という制約のなかで、その日の最善の一言を考える作業は、とても楽しいのでした。誰かから反応があるわけではなく、友人と会話するわけでもなく、ただ、この広い海に、手紙入りのボトルを流すような気持ちでいます。
私の言葉は、誰かに届いているのかもしれません。しかし、あまりに他愛ない内容であるがゆえに、インターネットという大海をゆらゆらと静かに流れていきます。波の狭間の、見えるか見えないかわからないような場所を、ゆらゆら、ゆらゆら。そうして流したボトルの数は、今日で365個になりました。
昨今、インターネットの匿名の凶暴性というようなものが問題視されていると聞きますが、その一方で、インターネットはとても優しい、と私は思っているのです。海は、無情にも人の命を飲み込んでいくときもありますが、安らかな流れでもって、舟を人々の故郷へ運んでいくこともあるのです。
私は中島みゆきの音楽が好きです。彼女の曲のなかで、もっとも気に入っているものに「海よ」というものがあります。歌詞はここでは述べません。ただ、若い舟乗りの夢を奪いながらも、故郷へ舟を運んでくれるかもしれない海、というこの歌詞のイメージは、幼少時に初めて聞いたときから、とても印象的に私のなかの「海」を象徴していました。
私の生まれ育った場所には海はありません。ですから、私のなかの海とは、この歌詞に出てくるものや、映画に出てくるもの、そしてインターネットという電子の海――そういったフィクション的なものに限りなく近い存在なのです。
ところで、インターネットに終わりがあるのかどうか、私は知りません。ただ、私に終わりはあります。いずれ、私の言葉はこの海には流されなくなります。一日一回、私がこの世界に流し出していた言葉たちは、ある日を境にぱったりと途絶えるでしょう。その前日、いったい私はどのような140字を綴るのでしょう。変わらず他愛のない一言でしょうか、それとも、この世界へ、海へ、遺言のようなものを送るのでしょうか。この海にはすでに、そういった誰かの最後のボトルが送られ、海を漂っているのだ、と考えると、震えずにはいられません。遺言たちは、誰にも邪魔されずにゆらゆらと波間を漂い、持ち主が海から消え去っても、海のなかで淡くひかりつづけるのでしょうか。もしかすると、この広い海のどこかには、そうしたボトルばかりが流れ着く秘密の場所があるのかもしれません。さながら灯籠流しのごとく、ぼんやりと光り、流れる言葉たち。誰にも届かなくても、言葉たちはそこに集い、さまざまな色の光でもって、互いに会話をするのです。
つい、感傷的になって、つまらない空想の話をしてしまいました。もしよかったら、ついでに、不躾なお願いをさせてください。もしも、あなたが電子の海のなかで、ゆらゆら漂いながらも最期の光を放っている灯籠のようなボトルを見つけたら、どうか、手にとらないで、そのまま、見送ってやってほしいのです。それは、優しい海を愛した私の、最期の言葉のかけらかもしれません。
20140723