はるか昔の戦乱の時代のことらしいが、この地域には鬼が住んでいたという伝説がある。これはぼくが祖父から聞いた話であるため、祖父による脚色が含まれているかもしれない。
鬼といっても、日本の民話や郷土信仰によくある、角を持っていたり、毛皮の褌をまとっていたり、金棒を持っていたりする、そんな姿の鬼ではないのだと祖父は言う。その祖父はつい先日他界したため、詳細を尋ねることは叶わない。
ぼくの住むアパートは、現在は住宅街の真ん中にある。ぼくが生まれた頃から、ここらは、こじんまりとした住宅ばかりが立ち並ぶ、都会の中の田舎、といった風情の一角だ。祖父によると、昔はここらは少し高めの丘のようになっていて、その丘のてっぺんには鬼が住んでいたという。
鬼はうつくしい青年の姿をしており、鬼らしい身体的特徴を何一つ持っていなかった。つまり人間と全く変わらない姿をしていた。
ではなぜ、彼は人間でなく鬼と呼ばれていたのだろうか?
それを語るためには、当時、村で起きた不吉な神かくしについて説明しなくてはならない。
丘の下の村では、時折、子どもの姿が消えていた。
何の前触れもなく、それまで外で遊んでいた子どものうちの一人が、ふっと消えるのだそうだ。
そして、その現場には、必ずあるものが残されていたと伝えられている。あるものというのは、神かくしの犯人の残虐性を思い起こさせると同時に、その犯人が人知を超えた存在なのではないかという推測を与えるものであった。
……子どもの、右手である。
この残虐な事件は、村全体に恐慌を呼んでいた。原因も犯人もわからない、何の目撃情報もない、もちろん対処方法もない。閉鎖された村から逃げるすべも知らない住人たちは、少しでも子どもたちが消える原因を突き止めるため、独自に捜査を始めたらしい。
捜査などと言っても、ただ子どもの周囲に聴きこみをするだけだ。もちろん、成果はほとんどなかった。当時、子どもたちのなかで、ひとつの遊びが流行していたことがわかったくらいで、犯人につながる情報はほとんどなかったという。
流行していた遊びというのは、現代の言葉で言うのなら「嘘つきゲーム」とでも言うべき代物で、嘘と真実をおりまぜながら会話をし、誰のどの言葉が嘘なのかを当てる……そんなルールのものであったらしい。この「嘘つきゲーム」という呼び名も祖父から聞いたものである。本来はもっと別の名前があったのだろうが、伝承を重ねるうちに正しい呼び名は消えてしまったのだろう。
子どもの他愛ない遊びのことなど、大人たちは最初、気にしていなかった。だが、しばらくして、子どもたちから不可思議な証言が出始めた。「嘘つきゲーム」をしていると、丘に住む青年が決まって遊び場にやってきて、こう言うのだという。
「その遊びをやめないと、鬼が君たちを食らってしまうよ」
子どもたちは、丘に住んでいるおかしな青年の言葉を相手にはしなかった。放っておいて、構わずにゲームを続けていた。そして、子どもが右手だけになってしまうのは、その青年が忠告をしてきたすぐ後のことなのだという。
犯人は青年なのではないか、という意見が村人のひとりから出た。しかし、右手だけを残して死体が消え失せるという異常な状況下で、村人たちはすぐに青年を尋問することはできなかったようだ。あいつは鬼かもしれない、という意見が出たのもこのときである。
村人たちが意を決して武器を持ち、青年の自宅に向かったとき、彼の住んでいたはずのあばら屋には何もなかったという。人がひとり生活していたとは思えない、不自然にすっきりと片付いた空間。ただ、あばら屋の玄関には、小さな箒のようなものが落ちていた。村人のひとりがそれを手に取り、そしてぎょっとした顔で取り落とした。それは干からびた右手だったのだ。
……祖父は「おまえも気をつけろ」と、抽象的な言葉でこの不可解な話を締めくくった。この神かくしの一件以来、嘘つきの子どもに罰を与える「うそつき鬼」という伝承が、この村に伝わっているらしい。この話を聞いたときから、ぼくは意識的に嘘をついたことがない。最近は意図的に嘘をついて騙し合うゲームがインターネット上で流行っていると聞くけれど、もしかすると彼らの背後にはうつくしい青年の影があるかもしれない。うそつき鬼は、ぼくらの村を出て、またどこかで誰かの右手を……そんな空想が、頭から離れない。
20140724