藤井寺駅から歩いて四分。狭い路地をネコのようにくるりとまわって、すこし暗いさびれた商店街に入る。キツネでもいそうな神社をくぐりぬけ、人気のない道へ出たところに、行きつけの喫茶店がある。まだ中学生だというのに背伸びをしていると思われるかもしれないが、毎日、そこへ通っているという事実は、ぼくにとってはとても誇らしいことなのだ。
喫茶店の前には、いつも小さな黒板が置いてある。本日のおすすめだとか、店主の近況だとか、そんなことが、愛らしい丸い文字で書かれている。メニューの名前の横にはイラストが添えられていて、華やかな印象を与えていた。
店主は謎めいた女性だ。ショートヘアーが非常によく似合うのだが、ボーイッシュではない。ウエイトレスというよりもウエイターといった風情の服を着ている。無口だが、無愛想ではない。こうして言葉で説明しても、彼女の本質をまったく説明できていない。そんな気がしてならない。どうか、こんな説明を読むより、実際にこの店に出向いてみてほしい。彼女の不思議な魅力は、そうしなければ確認できないと思う。
さて、喫茶店は藤井寺駅のそばにあると述べたが、この藤井寺という土地には、実は馴染みがない。ぼくが住んでいるのはまったく別の土地で、いつもここまで電車で赴いている。もともとは、小学校の頃に通っていたピアノ教室が藤井寺にあったので、そのついでに喫茶店に寄っていた。だが、ピアノは早くにやめてしまったので、現在は喫茶店に通うために、わざわざ電車で三十分以上かけて出向いているのだ。バイト禁止の中学生には少々つらい出費だが、我が家はそこそこ裕福なので、問題はない。
店のなかは、薄暗く、琥珀の内部で眠るような気分になれる。店主がコーヒーを運んでくるだけで、あとは、ひとりでぼーっと物を考えることができる空間。学校で何があったか思い返したり、読んだ本の内容を反芻したりする。すぐに、二時間は経ってしまう。ぼくの他に客はあまり入っていない。また、店主はぼくのことをしっかり覚えているらしい。注文をしなくても、ウインナー・コーヒーが運ばれてくるくらいだ。
コーヒーを飲み終わって店を出ると、外には宵闇が落ちてきている。この闇のなかへ踏み出す瞬間が、たまらなく好きだ。振り返ると、店の看板とドア、そして例の黒板が見える。宵闇のなかから見ると、昼間はあんなにも愛らしく華やかに見えたあの黒板が、どこか哀愁を放っているように思う。おそらく、日中は、黒板自体よりもそこに書かれているかわいらしい文字の印象が強いのだが、夕方になると、むしろ黒板の黒い色が際立って見えるのである。
すこしモスグリーンを混ぜたような、あの色が、闇のなかに同化しかけてしまっているような、そんなイメージ。もうすぐ、あの店主が出てきて、あの黒板を店のなかに片付けてしまうのだろう。そうしたら、今度は夜の闇があの店を包み込むのだろうか。
門限のあるぼくは、その風景を見ることができない。ぼくがおとなになって、門限なんて気にしないでよくなったなら、ドアに「クローズド」の札がかけられたあの店を見てみたいと思う。夜のこの店は、きっと、この魔窟と隣り合うような町並みにふさわしい外観をしているに違いないのだ。
20140918