救世主に伏線はいらない



 体調を崩すと憂鬱になる。メンタルとフィジカルの同調、とでも言っただろうか。
 身体の不調は精神の不調を誘発するものだし、精神の不調は身体の不調を誘発する。というよりも、精神は身体に組み込まれた器官の一部にすぎないのであろうか。わたしには難しいことはよくわからないが、とにかく、病気にかかったことにより、精神的にもよくないものが押し寄せてきている。そして、精神的なダメージはさらなる身体の病状の悪化を招いている。昨日はほとんど意識のない状態で過ごし、何をしていたやら、あまり記憶が残っていない。

 一言で言うと、風邪をひいた。ただの風邪ではない。卒論の提出の三日前の風邪。三日もあれば書けると思ったのがよくなかった。このままだと卒業できない。もう就職することが決まっているので、卒業できないというのは困る。

 風邪といっても、起き上がれないわけではない。さっさと書いてしまえばいいのだが、それは身体の話。自分で言うのも何だが、わたしのメンタルは弱いのだ。三日もあれば書けるという慢心が、ここへきてわたしを追い詰めている。本来、三日前には書き上げているべきではないか。誰もが口を揃え、そう言うだろう。当たり前である。

 しかし、わたしのなかの悪魔がこうささやいた。
 「三日あれば書ける」と思ったのなら、本当に書けるのではないのか。
 そして。
 「三日あれば書ける」ものならば、頑張れば「二日でも書ける」のではないか。
 こうなると判断力が低下しているとしか思えないが、わたしはまた一日をムダにした。

 残り二日。
 朝起きて、風邪の気分の詰まった頭でよく考える。
 今日こそ頑張らなくては。
 もう、今日中に完成させるくらいの勢いでやらなくてはならない。

 しかし、神様はわたしに味方しなかったらしい。
 風邪は一気に悪化。
 気がついたら、また一日が終わっていた。

 最終日――起き抜けの頭で考えていた。
 もうダメかもしれない。
 しかし、まだ何か起死回生の策がある気がしてならない。
 誰かが助けてくれる。
 それも、非常にわたしに近しい誰かが……
 そんな人物がいたとは思えないのだが……

 ずっと家に缶詰になっていたせいで、脳がどうかしているのかもしれない。
 ……と。
 そんな思考のなかに、ある音が割り込んできた。

 ピンポン。
 軽やかなチャイムの音。
 わたしはなぜかその音でピンときた。
 これが救世主だ。
 
 ドアを開けてみると、郵便屋だった。
 彼の差し出したのは、一通の封筒。
 差し出し人は書かれていないが、わたしはこの封筒を知っている。
 
 中には、印刷された論文が入っていた。
 一緒に、一通の手紙も。
『なんとなく体調が悪い気がするから、急いで書いたものを送っておきます』
 どうして自分に向けてそんなことを書いたのやら、もうすでにその時点で相当に意識が混濁していたのだろうとは思うが、論文はきっちり最後まで書かれていた。三日前の自分は、意識が朦朧とはしていたものの、どうやら今の自分ほどぐうたらではなかったらしい。
 あまりにご都合主義だし、あんまりな展開だ。
 だが、救世主に伏線を求めるのは野暮である。
 安心して、わたしは寝ることにした。
 あとはちゃんと明日起きることさえできれば、完璧だ、とひとりごちながら。


20141106