さかしま



 最近、藤吉ツカサはツイていない。
 親が振り込め詐欺に騙されたせいで財布はスッカラカンだし、とある勘違いによって恋人にも振られてしまった。
 不運ここに極まれり、とぶつぶつ言いながら歩いていたら、犬の糞を踏んだ。
 もはや、職以外に失うものは何もない。
 やぶれかぶれな気分で、出社した。

 なんとなく嫌な予感はしていた。
 というよりも、あまりに不運なので、嫌な予感以外の予感なんて死に絶えていた。

「ちょっと、藤吉くん」

 出社してまもなく、上司に呼び止められた。
 なんでも、藤吉が提出した書類に不備があったせいで、取引先で揉め事が起きているらしい。
 やはり、やはり、つきまとうのか。疫病神。
 藤吉は毒づきながら、社長のデスクをひっくり返して逃走した。
 会社にとって重要な書類が集められているデスクは、大きな音を立てて無惨な状態になった。書類も、社長のカバンも、置いてあったコーヒーも、すべてがさかさまだ。

「やっぱり、もうだめだよなあ」

 会社の最寄りにある公園にやってきて、藤吉はベンチに転がった。上司たちは追いかけてこない。いきなり机をひっくり返してしまうような危険人物には近づきたくないということなのか、単に追いつけなかったのか。

「あー……」

 ベンチから見上げた空は青い。白い雲が、やけに足早に流れていく。公園には鳩が寄り集まって、やかましくさえずっては、通行人に餌をねだる。それをおもしろがった通行人がパンくずをやっている。のどかなものだ。

 ふと、中学生の頃のクラスメイトの少女を思い出す。名前まではわからないが、彼女はよく、鳩にパンくずをやっていた。なんでも、鳩が飢えているのがわかるのだとか。思春期の少女によくあるつまらない感傷の一部分だが、彼女の語るそうしたテレパスに、藤吉は憧れていた。
 もしも、他人の心がわかったなら。未来が予知できたなら。テレパスを、サイコキネシスを、超能力を持っていたなら、こんなことにはならなかっただろうか。

 そういえば、その少女は言葉遊びが好きだった。「下手」と「手下」とか、「国外」と「外国」だとか、ひっくり返すと意味の変わる熟語を探したりして、いつも過ごしていた。
 当時、日曜日の某社の新聞にはそうした言葉遊びのクイズが載っていたのだが、彼女は月曜日になると、学校にその新聞を持ってきて、欠かさずに解いていた。不可思議なテレパスを持っていても、そうした遊びは欠かさないのかと、藤吉はどこかおかしい気持ちで眺めていた。

「言葉遊びなんかして、何が楽しいんだ?」
と、藤吉は彼女に尋ねたことがある気がする。月曜日の休み時間。彼女は、新聞のクイズを黙々と解いていた。
「言葉は、この世のすべてなのよ」
そんな、不可思議な言葉が返された。
「たとえば、『会社』っていう熟語があるけれど、ひっくり返すと『社会』になるよね。会社をひっくり返すような、どでかい才能を持っている人は、いずれは社会そのものになれる。そういうふうに捉えられない?」
「夢見がちだね。ばかみたいだ。そんなことはそうそうない……」
藤吉が冷たく突き放すと、少女は残念そうな顔になった。
「そうだね、夢見がちだ。わたしの言うことは、だいたいそう。お母さんも呆れてるみたい。でも、わたしは夢が見たいの」
少女は短くなった鉛筆をくるくる回して、苦笑いした。

 カッとなって会社の机をひっくり返した藤吉は、社会そのものにはなれそうにない。あのとき、少女を冷たく突き放したのは、照れ隠しだったと思う。夢見がちな彼女に、現実をつきつけて、格好いい男のふりがしたかった。

「ばかみたいなのは、俺だな……」

 藤吉ツカサは、青い空のなかを泳いでいく白い雲が、涙でにじむのをいつまでも眺めていた。己の理不尽な不運のなかに、すこしでも夢を見出したかったが、涙で何も見えない。あの頃、少女の夢を否定した報いだろうか。もしも、あの子にもう一度会うことができたなら、今度はそのテレパスを肯定してやろう。

 そして、一緒に夢を見たい。青い雲のなかに赤い金魚を浮かべて、深緑の藻を植えてやろう。建物はみんなさかさまにして、みな、逆向きで生活するようにしてやろう。青い空のなかを人間が歩いていく。そのまんなかで誰かと手を繋いで、いつまでもいつまでも空に泳ぐのだ。疫病神に憑かれた藤吉は、そんなありえない社会そのものになりたいと願いながら、目を閉じた。



20150128