『 ぼくたちのメヌエット 』
「きれいなピアノだね」
眼鏡をかけた少年はそういって、宗一の演奏を褒めた。
「そういう言い方をすると、演奏よりもピアノの表面が美しいように聞こえるね」
宗一はそう指摘した。少年の間違いを正したというよりも、褒められたことへのアクションをすることから逃げたのだ。
褒められることが苦手で、宗一はいつも逃げ出してしまう。
「どうしたら、宗一せんぱいみたいに、ボッケリーニのメヌエットを弾けるようになるかな」
物憂げな顔で付け足す少年は、初歩的なピアノ教本である「バイエル」を持っている。
少年は宗一よりも三つ年下で、同じピアノ教室に通う仲間だ。
どうやら、ピアノ教師は少年のことが気に食わないらしい。
少年はピアノが下手なわけではない。ただ、苦手なパートを弾くとき極度に緊張してしまうせいで、何度か教師に怒られている。その後、パブロフの犬のように、彼は苦手なパートにさしかかるたびに致命的な緊張をするようになってしまった。何度も叱られるものだから、自分はピアノが下手だ、と忸怩たる思いでいるらしい。今日もお叱りを食らったらしく、悲しそうな顔をしている。
宗一はというと、少年の弾くピアノの音がとても好きなのだ。
たしかに、宗一はピアノが上手かもしれない。しかし、ただ楽譜に忠実に鳴らしているだけで、いわば機械的な演奏なのだ。教師の怒りに怯えながらも、感情を豊かに奏でる少年のピアノのほうが、宗一はよほど魅力的だと思う。
「ボッケリーニのメヌエット」は、宗一が三年前に発表会で連弾した曲である。連弾の相手はすでにピアノ教室をやめ、今は子ども会で野球をやっている。
そのときの連弾を聞いて、少年はこの曲に惚れてしまったという。
少年いわく、「宗一せんぱいのメヌエットは、ぼくのあこがれなんです」とのことだ。
そんなに自信をもってピアノを弾いているわけではない宗一にしてみれば、少年の目標にされているのは気恥ずかしい。しかし、少年の無垢な眼差しとピアノへの愛情は、宗一を若干楽な気持ちにしてくれる。
すこし前までは、ピアノなんてやめてしまおうかと思っていた。自分も、子ども会で野球をしたい。ピアノは思うように弾けない。どれだけ間違いなく弾いても、なにか足りないように思ってしまう。
でも、少年が憧れを込めて自分を見つめているかぎりは、ピアノをやめてはいけないような気がした。
宗一はボッケリーニのメヌエットをそらで奏でつつ、思う。間違いなく続いていく自分のメヌエットより、少年のぎこちないバイエルのほうが美しい。そんな不器用な少年と、いつか一緒にメヌエットを奏でたい、と。
20150406