『 さあ、その扉を閉じて。 』


 僕は彼女のことが嫌いだった。なぜなら彼女はいついかなる時も自分を善良に見せ、あるいは全能に見せることができたからである。僕にはない能力だ。
 善良な、端的にいうと『いい人』――というのは基本的にずるい。彼ら彼女らが実際に善良であるかどうかと、彼ら彼女らが善良に見えるという事象には関係がない。むしろいつでもどこでも、どこまでもいい人に見える人間というのは、そういう風な自分を演出することに長けているだけで、実際、腹の中ではとんでもないことを考えているのかもしれない。

 善良な行為を、他人の前で行わなくては『いい人』にはならない。だからまあ、僕はいい人っぽく見える人間を信用することに懐疑的なのである。頭がよく、自分をそういう風にプロデュースし、演出する能力に長けてさえいれば、その人物は『いい人』として世間に評価されうるのだから。逆にいうならば、完璧に善良かつ潔白な精神を持ちながらも極度の上がり症で、他人の前では無愛想になり失敗を繰り返してしまう、醜態をさらしてしまう、だが他人がいなければ清廉潔白……という人物がいたとして、そいつは『いい人』には思われないはずなのだ。

 さて、だがそんな相対的かつ流動的な他者評価などどうでもよくて、今は彼女の話をしよう。彼女は完璧だった。自分を美しく見せること、自分を正しく見せること、自分を頭のよさそうな嫌味のない人間に見せること、そのすべてに成功していた。だが、正しい人間に見えるということは周囲の人間の間違いを映しだして露出するということだし、美しく見えるということは周囲の人間は醜く演出されているということだ。そう、彼女のそばにいる人間は、その圧倒的に明確な論理によって『間違い』にされた。いつのまにか、自分でも気付かぬうちに、正しさによって駆逐された。頭がいい人間は、抜け目がない。狐のようにずるい。自分を悪者にすることなく、他人を駆逐する。駆逐された側は、駆逐されたことにすら気付かないまま消えていく。僕にはそれが許せない。
 他人を異常として排しながら。
 自分は平然と聖人として存在しつづける。
 あまりに尊大な。
 あまりに醜悪な。
 それが彼女であった。
 誰にでも好かれ。
 誰にでも尊敬され。
 誰にでも肯定され。
 世界中のだれよりも憎らしい。
 そして、美しい。

 だからこそ僕は彼女の恋人になろうと思った。
 これは恋ではないし、愛でもない。
 いい人でもなければ頭がよくもない、自分を演出することなんて考えも及ばない、そんなただの凡人代表であるところのこの僕が。僕こそが。
 世間に認められた圧倒的な正しさを持った彼女を――どうにかして貶めてやろうと。
 合法的に、誰もが納得する形で……ぐちゃぐちゃに汚してやろうと。
 そんなことにエネルギーを費やすなんてバカだ、非人道的だと思われるだろうか。それでも構わない。僕はただ、叫びたかっただけなのだ。
 自分でも気付かない間に消されてしまった人間がいる。
 諦めることを自覚する前に諦めてしまった人間がいる。
 勝ちつづけた人間には負けた人間の気持ちはわからず、
 負けつづけた人間には勝った人間の気持ちはわからない。
 彼ら彼女らは、他人を消していることに気付かないままに輝きつづける。
 その事実が、消されてしまった僕にはどうにも物悲しい。
 この気持ちを分かってくれとは言わない。
 ただ、僕は君を、この僕と同じ気持ちにしてやるだけだ。
 待っていてくれ。
 僕は、誰にでも平等に綺麗に開かれた君の世界を、今すぐに、綺麗なままに閉じて終わりにして見せるからさ。



2011年09月26日(月)
正しいものはどこまでも強く、
間違っているものはどこまでも弱い。
そんなお話。