『 真空回廊は 』
――さあ、駆けあがれ。
階段を駆けおりるのが上手、というのはシンデレラの特質であろうが、それでは階段を上手に駆けあがらなければならない僕は一体何なのか。さっぱりわからない。とりあえず、僕は階段を必死に駆ける。それが人生における義務だとでも言うように。
正直、この状況に対する不満はたくさんある。
「ねえ、行かないでよ」
と彼女に呼び止められたとき、その腕をふりほどかないという選択肢も僕にはあったはずなのだ。
大きなホールの中、美しいワルツが流れていた空間。
そこで、僕は彼女にダンスを申し込まれた。
びっくりするくらい綺麗な人形みたいな彼女を、僕は受け容れたのだ。
二人で踊ったワルツも、どこまでも続いているみたいなホールも、異世界のものみたいで、現実感がなかった――
体の外で起こった現象みたいな恋だった。
僕という体を、感情が通り過ぎて。
恋に落ちた僕はまるで他人みたいだった。
もう一人の僕は、冷めた目で僕を見つめながら、回廊の最上階にいる。
そんな気がした。
一方で、彼女とダンスを踊っているとき、僕が考えていたのは、自分の靴のサイズが足に合っていないことだった。
もう少し、ちゃんと靴を見つくろうべきだった。
これでは、そのうちに靴ずれができて痛むだろう。
世にも美しい女とダンスを踊っているというのに、僕はそんなことで頭がいっぱいだった。
非現実。
そう、これは現実ではない。
自己分裂を起こした僕は、二つの脳を駆使して考える。
ホールでダンスを踊る僕は、女と恋に落ちて、でも靴ずれのことを考える。
回廊の最上階にいる僕は、そんな恋心とは無縁に、ただ時計を見つめる。
時計には秒針がない。あとどれくらいで命が果てるのか、わからない。
最上階は空気も薄くなっていて、まるで真空パックされているみたい。
きっと、その僕は人間として、生きてはいないのだろう。
しかし、思考する能力だけは持っていて、彼は踊る僕を小馬鹿にしながらこう思うのだ。
……君はさ、踊ってる場合じゃない。さっさと抜け出さないといけないんだよ。
なぜなら、踊っている僕は『肉体』で、最上階にいる僕は『魂』なのだ。
早く一緒にならないと、魂を失った肉体は滅びるし、肉体を失った魂はかき消える……
すでに、魂はこの場から逃げるために、再構成を始めているみたいだった。
魂は自由だから……肉体を失っても、別の場所で漂うことはできるのかもしれなかった。
だが、そうなったら肉体は用済みだ。
魂となった彼は思う。
なあ、早く気付いてくれよ。君はその女性の手を振り払って、僕の所へ来なければならないんだ。
そうしないと、君は死んでしまう。
一時の恋なんか忘れて、僕の所へ……
そのとき唐突に、踊っている僕は気付いたのだ。
自分は踊ってる場合なんかではなく、
終わりはもうすぐそこにあるということに。
自分に捕まった女性の腕をさっと振りほどき、僕は。
――回廊を駆けあがる。
「どこへ行くの?」
彼女は驚いたように尋ねたが、僕は答えなかった。
階段を一段飛ばしに駆け上がる。
その必死な動作で、僕の心に彼女という哀愁が入る隙なんてないってことを、教えたつもりだった。
ああ、どうしてこんなことになったのだろう。
タイムリミットはもうすぐそこなのだ。
魂と肉体の終わりは、もうすぐ。
でも、この場所にある時計には、秒針がない。
あと何秒で時間切れなのかわからない。
だから焦る。
だからただ、だからただ、だからただ。
安心して、この世界から抜け出すための。
かんじんな、秒針がない真空回廊は――
僕は僕に焦がれながら走る。
大きすぎる靴で転びそうになりながら、走る。
白くて割れそうな階段を踏みしめて。
僕が僕に出会えるのかどうか――物語の終わりは、誰も知らない。
2011年08月30日(火)
イメージは、『真空回廊』 by cali≠gari。
大好きな人間を振り払って駆けだすことは、人生において最も大切なことである。
そう、たとえば、大好きな自分自身とか。