『 疑似表現テキスト 』
友だちの「死にたい」を毎日のように聞いていたら、自分も死にたくなってしまった。二週間ほど経過して、その友だちはさっさと立ち直り、同調して死にたくなった自分だけが残された。
往々にして、軽々しく死にたいなどと口にする人間は、軽々しくその気持ちを撤回するものだ。そして、それを重々しく受け止めた人間はいつまでも気持ちを引きずる。口にすることすらできないままで。
実は、そういう類の人間につきあってそうなるのは初めてではない。学習はできている。学習したことを応用できないだけ。「死にたい」気持ちは理解できるから、同調することをやめられない。「死にたい」ときに誰かに一緒にいてほしい気持ちもわかるから、一緒にいてしまう。その後に起こることもはっきりと見えている。私は置いていかれる。彼女は走り去り、私だけが残る。
マラソンで、一緒に走ろうねと約束しても、取り残されるのはいつだって私だった。ああいうとき、先に走って行ってしまう人間には、取り残される気持ちは一生理解できないのだろう。絶望で人生が終わってしまいそうに思えるあの感情は、おそらく「死にたい」と同種のものだ。たかがマラソンごときでそんな風に思うなんて、大げさだろうか。でも、『一緒に』という単語はそれだけ重々しくあるべきだと思うのだ。つらいときに一緒にいてくれる人間ほど、救いになるものはないはずなのだから。
誰も私の「死にたい」につきあってなどくれない。
全員がただ走り去る。
『一緒に』いてくれない。
誰もが走り去る中で、私は立ち止まって空を見上げてみる。
閉塞しているまっくらな空。
雲が風で流れていかないのは、私がそこで雲をせき止めているからであった。
私は、軽々しく死にたいなどとは言えない。
ましてや、一緒に走ってほしい、一緒に立ち止まってほしい、なんて言えるはずもない。
どうせ、みんな走って行ってしまう。
例外はない、みんな自分が走ることに必死なのだから。
口に出さない私の「死にたい」は誰にも届かないから、感情自体に意味がない。
私が立ち止まっていたことも、みんな明日には忘れてしまうだろう。
二週間もすれば、私の存在すら記憶から消えてなくなっているはずだ。
覚えていてほしいなんて思うはずもない。
できるだけ早く忘れてしまえばいい。
――私は、近いうちに消えてなくなってしまうだろう。
誰もそんなことには頓着しない。
ただ、いつもよりも少しだけ雲が早く流れていく。
そんな日常が訪れるだけなのだろう。
2011年10月21日(金)
メトロノーム『疑似表現テキスト』のイメージで。