夏の輝き
その日、わたしは居間でゴロゴロしながらテレビを見ていた。
テレビで流れているのは、土曜日の朝にやっている魔法少女アニメ。
わたしは加持夏輝のようなオタクではないので、アニメを必死に見ているわけではない。ただ、暇つぶしにはちょうどいい塩梅の物語だった。こういう小さな子どもに向けた作品というのは、変にねじれていなくて、気楽に見られる。逆に、大人向けの難しい映画などを見ると、眠たくなってしまう。わたしがまだ中学生だからだろうか。
土曜日は、両親は仕事に行っているが、わたしと兄は自由に過ごせる日である。
兄のトシキも、わたしと同じく居間にいた。彼は魔法少女アニメには興味がないらしい。テレビではなく、自分のパソコンの画面をじっと見つめて、真剣な表情で何かを考えているようだ。大学のレポートでもやっているのだろうか。
わたしと兄は、仲良く一緒に育ってきている、と思う。ただ、五歳も年が離れているため、個人的な話はあまりしない。わたしは兄がパソコンで何を見ているのか知らないし、兄もわたしが普段何を考えているのか知らないはずだ。愚直でまじめな印象の兄は、わたしが特殊撮影研究会などといういかがわしい団体に関係していると知ったら、怒りだすかもしれない。ただ、兄は非常に気弱なので、たぶん何も言わないだろう。
……アニメは三十分しかないので、またたく間に終わってしまった。兄はまだ、パソコンで何か見ている。そろそろ自分の部屋に行って、宿題でもしようかな。そう思った矢先に、携帯電話が鳴り出した。
「電話、鳴ってるぞ」
兄はパソコンの画面から目を離すことなく、そう言った。
作業を邪魔されたようなものだろうに、わざわざ教えてくれるあたり、とても優しいのである。
携帯電話の画面を確認すると、嫌な名前が表示されていた。
――加持夏輝。
普段、研究会関連の連絡は、メールで送られてくる。
彼が電話をかけてきたのは、おそらく初めてではないだろうか。
あのテンションで話しかけられると思うと憂鬱だが、出ないわけにもいかないので、通話ボタンを押す。
「もしもし、園田です」
「加持だ。今日、暇か?」
「暇ですけど」
「駅前の餃子屋、わかるか?」
「わかりますけど、そこがどうしたんです?」
会話の要点を切れ切れにしか言わない彼に、わたしは事務的に聞き返す。
駅前の餃子屋というのは、餃子を中心に売っている中華料理のチェーン店で、大人の男性――というか、おじさんたちに人気がある。昼間は家族連れで賑わっていて、夜はサラリーマンたちが飲み会に使うような店だ。
いまいち表情の読めない声の加持は言う。
「そこで、一緒に昼飯を食べないか」
「……はぁ?」
思わず、マヌケな声を上げてしまった。
もう十時過ぎだというのに、いきなり昼食の誘いだなんて、非常識な男だ。
加持らしいといえば、非常に加持らしいのだが。
「それは、研究会の活動ですか?」
「いや。ぼくときみだけの活動だ」
「何ですか、それ。デートですか?」
「…………」
加持は押し黙る。
一分ほど経過してから、自信のなさそうな情けない声で、彼はこう答えた。
「で、デートではない。ぼくがそんな非常識な男だと思うか?」
「思いますけど」
「…………」
また加持が黙った。顔が見えないと、ツッコミもやりづらい。
とりあえず、加持が非常識でないとしたら、世の中の大半の人間は常識人のカテゴリーに入るような気がする。
また一分経過して、回復した彼が話しだした。今度はムキになっているような口調だ。
「と、とにかくだな、ぼくはきみと昼食が食べたい。あの店の餃子はうまい。きっと気にいると思う!」
「はあ、そうですか」
落ち着いて考えてみよう。今日の昼食は、まだ特に用意していない。兄と二人でインスタントラーメンでもつくろうかと言っていたところだ。両親が家にいるわけでもないし、兄は放っておいても適当に何か食べるだろう。
それならば、餃子を食べに行ってもいいかもしれない。インスタントラーメンよりはおいしいだろうし、おそらくは加持のおごりである。小遣いの少ない中学生にとって、外食は贅沢なもので、めったにありつけない。
インスタントラーメンと餃子を天秤にかけてから、わたしはにっこり笑って、こう答えた。
「仕方がないですね。じゃあ、一緒に行ってあげます」
「本当か!?」
「嬉しそうですね、加持さん」
「そりゃあ嬉しいさ! じゃ、じゃあ、十二時半に餃子屋の前に来てくれ。頼んだぞ」
黙りこんだり、嬉しそうにはしゃいだりと、加持は本当に忙しい男である。
見ていて飽きない。そういうところが、彼の魅力なんだろう。
保坂は加持の高校時代の友人だというが、おそらく、その頃から加持はこういう男だったのだろうなと思う。
「……彼氏でもできたか?」
電話を切った後、急に背後から声をかけられて、わたしは驚いて振り向いた。
「お兄ちゃん、今の話、聞いてた?」
「ああ、聞くつもりはなかったが、聞いてたな。デートがどうとか言ってたけど」
兄は特に思うところはないようで、淡々と答える。
内心、冷や汗をかきつつ、わたしはできるだけ何でもない風に言う。
大丈夫、この兄は他人の詮索をしたりしない。煙にまいてしまおう。
「デートじゃないんだけど、今からお昼ごはんを食べに行くの」
「友だちと、か?」
「そう」
先ほどの加持と同じように、一分間ほど兄が黙った。何を考えているのだろう。
常日頃から表情の読めない兄だが、今回はいつにも増して読めない。
一分後、兄はわたしの目を見て、こう言った。
「夕方までには帰ってこいよ。夕飯は俺がつくることになってるんだ」
はーい!と元気よく返事をして、わたしは着替えるために自室へと向かう。
駅まで行くのには、三十分くらいかかる。早めに着替えなくてはいけない、と自分に言い聞かせて、兄に別れを告げた。
+++
一方、ユカの兄――園田トシキは、去っていく妹の背中を見つめる。
妹のユカは、あまりにも普遍的で、どこにでもいそうな女の子だ。
だが、兄としては、模範的すぎて、逆に心配になってしまうようなところもある。
人間、ちょっと羽目をはずすくらいのほうがうまくいくものだ。
親や兄の期待に答えすぎたユカが、そのうちねじれてしまわないか、トシキは心配だった。
だから、彼女が「デート」という言葉を口にしたとき、トシキはほっとしたのだ。
人並みに羽目をはずして遊ぶことが、妹にもあるのか、と。
……ただ、トシキにはひとつ気がかりなことがあった。
妹が家を出て行くのを確認してから、彼は思わず、こうつぶやいていた。
「あいつ、『加持さん』って言ってた気がするけど……」
トシキは非常に内気なので、『加持』という名前について妹に問いかけることはしなかった。
が、その名前には聞き覚えがある――ような気がする。いったい、どこで見たのだったか。
トシキは、その名前を頭のなかで反芻しながら、今日の昼食のメニューについて考えていた。
+++
外に出ると、日差しが照りつけていて、意外と暑い。
こんなに暑いのなら、餃子ではなく冷やし中華が食べたいかもしれない。
加持との待ち合わせ場所まで、自転車で三十分。
照りつける日差しのなかを、自転車で駆け抜けるのはなかなか爽快だ。
徒歩だと汗だくになってしまう距離だが、自転車ならば涼しい風を受けて走ることができる。
バイクや車に乗れない中学生にはちょうどいい乗り物である。
風を切り、駅の駐輪場に自転車を置いてから向かうと、店の前にはすでに加持が来ていた。
いつもどおりの銀髪に、半袖のアロハシャツのようなものを着て、腕組みをしている。
加持の場合、めかしこんでいるのか、通常の私服なのか、何らかのコスプレなのか、まったくわからない。
服を褒めて、「よくこのコスプレがわかったな!」などと語り出されても面倒なので、服装に関してはスルーすることにした。
「何なんですか、加持さん。急に呼びつけるなんて」
わたしが声をかけると、加持が笑顔になる。
「やあ、ユカちゃん。よく来てくれた。ここは暑いから、とりあえず中へ入ろうじゃないか」
朗々としたいつもの加持だった。ただ、どこか緊張しているようには見える。もしかすると、女子と待ち合わせをするのは初めてなのかもしれない。
昼食時だけあって、店のなかはそこそこ混んでいた。八割ほどの座席が埋まってしまっている。カウンター席が空いていたので、わたしたちはそこに座ることにした。加持がカウンターの右端の席に座り、彼の左隣の席にわたしが腰掛けた。
加持は餃子とラーメン。わたしは、餃子とチャーハンを頼んだ。念願の冷やし中華はメニューには載っていなかった。無念だ。
ラーメンとチャーハンはなかなか来ず、先に餃子が運ばれてきた。餃子が冷めてしまってもいけないので、さっさと食べてしまうことにする。加持はしみじみと言う。
「ここの餃子はうまいんだ」
「それ、さっきも言ってましたよね」
四つ並んだ餃子のうちの一つを、まずはタレをつけずに食べた。
確かに、おいしい。熱い肉汁が口のなかでじわじわと広がる。それでいてしつこくない。加持が熱弁するだけのことはある味だ。チェーン店侮るなかれ、ということか。
わたしは感嘆のため息をつく。
「おいしいですよ」
「そうだろう?」
得意気に胸を張りつつ、彼は左手に箸を持った状態で餃子を取り、自分の左側にあるタレの皿につけようとした。
まだ一回も使っていないが、それはわたしの使うべきタレである。加持のタレは、彼の右側にある。
「加持さん、わたしの餃子のタレに自分の餃子をつけないでください」
わたしは、できるだけ冷静に指摘した。
彼は慌てて餃子を引っ込める。
「す、すまない。左利きだから、つい自分の左側にあるタレにつけてしまうんだ……わざとではない、信じてくれ」
確かに、彼の性格からして、意図的にやっているわけではないだろう。
彼は自分の右側にあったタレの皿を、わたしの皿のすぐ右側……彼から見ると左側……に寄せた。
そして「これで、もう間違えないぞ」と言いたげに、ほっとしたような顔をした。
こういう小動物のような表情は、妙に愛おしい。
もちろん、ハムスターを愛でるような気分であって、恋愛感情などではない。
そんなやりとりをしているうちに、チャーハンとラーメンが運ばれてきた。
チャーハンは餃子に比べると凡庸な味だ。加持はラーメンをすすっているが、ラーメンもやはりありきたりな味なのだろうか、特に味にはコメントしなかった。
黙って食べるのもつまらないので、わたしから何か話を振ることにする。
「曲がりなりにも女性と二人で食事だというのに、餃子のチェーン店に連れてくるのが、加持さんらしいですよね」
「ぼくらしいというのは何だ。うまいものはうまいんだから仕方ないだろ」
意に介していない様子で、彼はもぐもぐと餃子を食べる。マイペースな男だ。
わたしは、チャーハンにレンゲを入れつつ、考える。
加持は、オクテで純粋で、食えない男である。
だが、趣味への熱意と痛々しさだけは誰にも負けない。
そんな彼が、一対一でわたしに言いたいこととはなんだろうか。
少なくとも、愛の告白などではありえないだろう。
わたしの考えを読んだのだろうか、加持は本題に入るべく、箸を置いた。
「今日は、ユカちゃんに確認したいことがあって、呼んだんだ」
「何です? 女優ならやりませんよ」
ちょっとだけ茶化してみたが、そんなわたしには答えず、加持はこう問いかけた。
「きみは、本当はぼくらには関わりたくないんじゃないか?」
深刻な顔の加持に対し、わたしは苦笑してしまう。
ふと時計を見ると、時刻は昼の一時を過ぎたところだ。まだまだ客足はとぎれず、店内はがやがやとうるさい。
そんな店内ではあったが、わたしの耳には加持のまじめな声だけが響いている。
「ぼくらが強引に誘ってしまったから、断りづらくなって、我慢しているんじゃないか……そう考えると、とても申し訳ない気持ちになる。きみに無理をさせたいわけではないんだ。ぼくは、熱くなると周囲が見えなくなるところがある。冷静になってから、自分が何かとんでもないことをやらかしたような気がする。それで、急に心配になって、ここに来てもらった」
そんなことを今更になって言い出すのが、とても彼らしいと思う。
わたしは眼鏡の向こうの瞳を見つめて、できるだけ大人っぽく笑んだ。
「……じゃあ、加持さんは、わたしを無理やりこんなところに連れてきて、無理やり餃子とチャーハンを食べさせている、とでも言いたいのでしょうか。無理やりに研究会に呼んで、無理やりに自分と会話させている。そこにわたしの自由意志は存在しない。そうですか?」
わたしはそう問いかけた。
彼は案の定、あたふたと焦ったような顔になる。
「いや、そんなつもりはまったくないんだけど……でも、ユカちゃんがそう思うなら、そうなのかも」
そんなしおらしい表情、加持らしくもない。似合わないと思う。
わたしはチャーハンをつつきつつ、笑った。
チャーハンの上に旗でも立てたい気持ちだ。
こうも弱気な加持を見ていると、どうもいじめたくなってしまっていけない。
彼は趣味に関しては強気だが、それ以外に関しては弱い男だ。
わたしは彼の趣味に興味はない。特撮も、AVも、アニメも、まったく知らない。
しかし、この自信のなさそうな彼には興味をそそられてしまう。
いつも堂々と演説をし、自分の趣味を得意気に語る加持の、裏の顔。
趣味を剥ぎ取られた彼の、本当の表情。
――その顔がもっと見たいと、思ってしまうのだ。
「あのですね、加持さん。わたし、兄がいるのですよ」
「……お兄さんが?」
まったく関連のなさそうな話題を急に振られて、加持の反応が遅れた。
それには構わずに、わたしは語りはじめた。
……彼の前で本音を語るのは、初めてかもしれないと思いながら。
「彼はわたしよりも五つ年上で、気弱なところがあります。兄は、自分の思っていることを他人に伝えるのが苦手です。わたしは、小さい頃からそんな兄を放っておけなくて、兄の本音を、兄の代わりに親に伝えていました。加持さんを見ていると、兄を見ているのと似た気持ちになるんです」
わたしは、付け合わせのフカヒレスープをレンゲですこしすくって、口に運んだ。透明でシンプルな味がした。
その味のおかげだろうか。急に自分の思考がクリアになった。
加持夏輝は、兄と同じなのだ。
優しくて、気弱で、一人では何もできなさそうに見える、大人。
年上のはずなのに、とても近しく感じられる存在。
加持はぽかんと口をあけて、何を言われたかわからないという顔をしている。
「加持さんにもわかりやすく言い直すと、わたしは"ダメな人を見ると、放っておけない"のです。だから、あなたのことも放っておけない。研究会の集まりに来ているのは、無理やりに参加させられているのではなく、わたしの意志ですよ」
あるいは、もしかすると、加持がわたしに才能を感じると言ったのも、そうした"世話やき"の才能なのかもしれない。
彼らはわたしを必要だと言ってくれた。だから、一緒にいようと思った。
しかし、あの出会いの日からしばらくして、わたしは気づいた。
わたしも、彼らを必要としているのではないか、と。
「……ははっ。ダメな人だなんて、本人の前で言うもんじゃないよ。普通はね」
加持は愉快そうに笑った。
先ほどまでの辛気臭い顔ではない。いつもの鬱陶しいテンションである。
「でも、そういうことをはっきり言ってくれるユカちゃんのことを、ぼくはとても気に入ってる。きみの才能というのが何なのかはまだわからないけれど、ユカちゃんと一緒ならきっと楽しいって思うんだ」
「そうですね。わたしも、加持さんと一緒ならきっと退屈しないって思います」
「よし、次の店に行って、もっと語り合おうか。どこがいい? コーヒー? それとも、アイス?」
餃子を食べ終わった彼は、銀髪をかきあげつつ、すっと立ち上がった。無駄のない鮮やかな動きだった。
それを見て、すこしだけ驚いた。
この男は、鬱陶しかったり、痛々しかったり、そんな動作しかしないと思っていた。が、どうやら無自覚に格好いい振る舞いをすることはあるようだ。そうやって自然体でいれば、おそらくもっとモテるだろう。
だが、モテなさそうな、残念な、それでいて前向きで魅力的な加持だからこそ、もっと見ていたいと思う。
そんなわたしは、おかしいだろうか。
「今はお腹いっぱいですから、コーヒーのほうがいいですね」
夕方までに帰って来いという兄の言葉を思い出しつつ、わたしは時計を確認して言った。
コーヒーを飲んで帰るくらいなら、たぶん大丈夫だろう。
「コーヒーといえば、仮面ライダーと喫茶店の関わりについて語りたいんだが……」
「語りたいなら語ってもいいですよ。返事はしませんけどね」
また加持のどうでもいい薀蓄が始まりそうだったが、今日だけは聞いてあげてもいいと思った。見たことのない彼の表情を、ちょっとだけ見られたからだろう。
店を出て歩き出すと、うるさいほどに焼け付く日差しは、先ほどに比べると気にならなかった。
なぜなら、隣を歩いている加持の薀蓄のほうが、日差しよりもよほどうるさくて、愛おしかったからである。
20150801