腐る散る沈む

 彼の右手の中指と薬指がぼろりと落ちた。先ほど、彼女に触れていた部位である。
 水槽の中の彼女は、ゆっくりと分解されて、無数の原子に戻っていく。水槽の水は透明ではあるが、どことなく青い。透き通った青が、彼女の体を溶かす。彼女の手足が分離して、体から離れる。黒い髪がクラゲのように漂い、水槽いっぱいにはられた水は、幻惑的に揺らめく。ゆらゆらと視界が揺れる。彼も死ななければならない。自らの右手を見ると、落ちた指の残りが微かにぴくりと反応を示した。まだ神経は通っている。痛くはないが、身体が腐り落ちるのは気持ちが悪かった。
 だが、同じように腐り落ちている彼女は、美しかった。黒い髪は薄青い水の中を漂いつづける。半分崩れた顔の表情は、彼の位置からは見えないが、おそらく安らかであろう。彼女は静かに、幸せなまま、死んだ。水は彼女の味方だ。
 さて、自分も水槽に飛び込まねばなるまい。彼は、彼女のように楽には死ねぬ。この水は、彼の味方ではない。運命は彼に無慈悲な苦痛を強いるだろう。身体が腐り落ちる苦痛、水の中で溺れる苦痛、そして何より、彼女が先に死んでしまったという苦痛。ああ、生きるとはこんなにも痛い。少しだけ、水に飛び込まずに生きていく自分を考えたが、すぐにやめた。たくさんの苦痛のうちで、生きることが一番の苦痛だと気付いた彼は、すぐにずぶりと水に足をさしいれ、そのまま倒れ込む。気管に水が食い込む感覚を味わいつつ、彼は沈んだ。
 世界は青く、そして生々しく美しい。
 水の中に沈んでいる彼女の分子を感じ、彼は腐りながら少し微笑んだ。


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