夢悔い
エレベーターの階数表示を見上げると、四階を通過している頃合いだった。ガラスの類は一切なく、外の様子はわからない。そんな密室に、彼を含めて四人の男女が詰め込まれていた。彼の名は神宮司。仰々しい、映画の主人公のような名前に普段から悩んでいるが、そのことはこの場ではまったく考えなくてよかった。
「誤解です、誤解ですよ奥さん、なんてね」
「ゆーじのギャグ超寒いぃ~」
などと会話しているカップルは神宮司の知らない人物であるし(たった今通過した「五階」とかけた洒落だろう)、もう一人の中年男性も、彼の知り合いではない。
神宮司は、徐々に上昇して行くデジタル数字の表示を見た。七、八、九……どこまで上がっていくのだろうか。
「なかなかつきませんね」
……背後から声を掛けられて振り向く。少し髪の薄くなった中年男性は、神宮司と目を合わせて少し笑った。
「そうですね、少々長く感じられる」
そう口に出してみて、神宮司ははっとする。自分はいつからこのエレベーターに乗っていただろう。思い出せない。
「きっとね、調子が悪いのですよ」
エレベーターの調子が悪いとは何事だろうか。どんな日であろうと、速度に違いなどないはずだが。老朽化しているのなら点検した方がいい。
そう思ったものの、「ええ、そうでしょう」と返事をしてしまった。
「調子が悪いということは、往々にしてよくあることです」
中年男性は知ったような口調でそう断定して。
「たとえばねえ。わたしは毎夜、寝る前に目を閉じるのですよ。まだ眠りには落ちていないのだけれど、意識は半分夢の世界に行っているのですね。その世界でね、わたしは階段を一段一段降りている。そろりそろりと、何か用心するみたいに進んでいく。その先には何もない。ただ階段だけがある世界なのですが、急に足を滑らせることがある。そうしたときは決まって、まるで現実にそういう出来事があったみたいに、目が覚めるんです。汗だらけでね」
「不可思議ですねえ」
「ええ、不可思議ですよ。きっと前世は蟹だったのでしょう」
神宮司ははっと息をのむ。
彼は今、何を言ったのだ?
聞き返せずに黙っていると、彼はやれやれとため息をついた。
「嫌ですねえ、不条理で不可思議な、この世の中。ガムテープで蓋をしてしまいたい。」
神宮司はふと、家に待つ恋人のことを思い出す。
彼女は、見たくないものをダンボールに詰めて、ガムテープで蓋をする癖があるのだ。
そして、いつだって梅雨を迎えているような顔で、神宮司に微笑みかける。
――死にたかったなぁ、というのが彼女の口癖だ。
「死にたい」ということと、「死にたかった」ということとは根源的に違う。
「死にたかった」というのは、たぶん、今は死にたくないけれど、過去の幸せな時点で死んでしまえばよかったというような意味合いで。
頂点から転がり落ちている途中のような気分なのだろう。
今は坂の途中、まだ大丈夫。
でもいずれは坂の一番下に行きついてしまう。そこに何が待っているかわからない。
だから彼女はいつだって、暑すぎる夏の前の梅雨のように、憂鬱な顔で笑う。
その笑顔がとてもきれいだった。
仮に、彼女がからりとした夏の太陽のような顔で笑っていたとしたら――自分は彼女を好きになることができただろうか。
「ああ嫌だ、ああ嫌だ」
中年の男はまだ愚痴を言っていた。意識をそこから外して、神宮司はカップルの方に目を向けた。
若い女性特有の、高くて脳に響く声は、こう言った。
「ゆーじー、このエレベーター、いつまでこうやって上がったり下がったりしてるの?」
上がったり―――下がったり?
背筋がさっと冷えた気がした。いつのまにか、エレベーターは降下していた。
そんなあからさまな変化に気がつかないなんて、ありえるだろうか。
しかし実際に、神宮司が気付かないうちにエレベーターは降下している。しかも、他の三人は特に気にしている様子がない。
カップルはまだ会話していた。
「そんなことどうでもよくね?マイカがいてくれるならどっちでもいいし」
「だよねー、エレベーターがどっちに進んでるかなんて、どうでもいいよね」
神宮司は混乱した。
エレベーターがどっちに進んでるかなんて、どうでもいい。本当にそうだっただろうか。
「目的地は一つしかないからね」
中年男性は、カップルに向かってであろうか、そんなことを言う。
「おじさん、話わかるね。ちょっとハゲてるけど、マイカはおじさんみたいなおじさん好きだよ」
「やあ、ありがとうマイカさん。わたしのような者にはもったいない言葉だ」
「いや、オッサン、今、ハゲって言われたって。もっと怒ってもいいって」
けらけらと笑う三人組。なんだか自分だけが取り残されている気分になって、神宮司は慌てて何か言おうとしたが――特に何も言わなかった。
世間話のようで少しずれている、彼らの話はまだ続いていく。
「ねーねー、最近、つかさちゃん見かけないね」
「そうだな、案外、家で死んでるかもしれないな」
「やだー、そういう冗談言うゆーじはきらい」
「いや、だってさ、姿の見えない人間なんて、いないのと同じなんだって思わない?」
ゆーじと呼ばれる男は比較的まじめな顔で言う。「透明人間とかな」
「あはは、ゆーじマジうけるー」
「透明人間というのはいいですね、自分自身をいないと思いこんでしまったら、きっと消えてしまうのですよね。その儚さが日本的でとてもいい」
透明人間、というワードに惹かれたのか、中年男性は急に饒舌になった。まるで、この話題を待っていたみたいだ。
「そも、人間とはいるかいないかわからない存在なのです。透明であろうとなかろうとね。すべてを夢想にしてしまうことは、そう難しくはないのです。シュレディンガーの猫なんて概念を持ち出すまでもなく、観測されないものに存在は約束されないのですし、何かを観測していないふりをすることはわりと簡単なのです。たとえば、」
と彼は神宮司を指した。「先ほどから黙っている彼。あなた、本当にそこに存在していると言えますか?」
「存在していますよ。当たり前ではないですか」
とは言うものの、神宮司は少し自信がなかった。今、エレベーターは下降している。
しかし、このエレベーターはいったいどこへ向かおうとしているのだ?
いったい、自分たちはいつからここにいるのだったか。
自分の腕を見やるが、時計はなかった。最初からないのか、たまたま忘れたのか、よく覚えていない。
「しかしね、そうやって黙っているのだったら、いてもいなくても同じではないですか」
話す必要がないのだから仕方がない。だいたい、先ほどから、この三人の言うことはどうもずれている。理論として成立していないようなところがあるのに、なぜか会話としては成立している。頭がおかしくなりそうだ。
「見知らぬ人間と、わざわざ対話する必要はない。人を異常者のように言わないでください。不快です」
そう言うと、中年男性は嬉しそうに笑った。笑うタイミングではない。意味がわからない。
「そうそう。そうやって話せばいいのです。そうでなければ存在は確約されません」
「民主主義社会といいますが、声を持たない民に存在の意味があるでしょうか」
「人を異常者のように言うな、と言いましたね。その言いがかりこそが民主主義社会の約束というものでもあるのです。我々は外側に異分子を生みだすことにより安心する習性があります」
「どんなに精神医学が発達したところで、群集心理がある限り、他人を異常だと決めつけるその原理は消えないのです」
「異常だと規定されたくないのであれば、群衆から離脱するよりない。しかし群衆の中にいない者を人間と呼べますか」
「そんなものはこの世には存在していないのと同じ」
「人間とは、世界とは、かくも不可思議で不条理なのです、ああ、ああ。」
「今こそ、ガムテープで蓋を――」
意味のわからない言説をまくし立てる男性にばかり注目していた神宮司は、そのときになってようやく、若い男女が消えていることに気付いた。
どこにも出口はない箱の中だったはずなのに……彼らはどこへ消えたのか。
神宮司は周囲を見回すが、風景はまったく変わっていない。
何の変哲もないエレベーター。
上がっているのか下がっているのかは、もう、よくわからない。
「ところでさ、つかさくん」
玉のようにきれいな声がして、そちらを見ると――先ほどの男性が立っていたところに一人の女が立っていた。
ついさっきまで、いつものようにダンボールに蓋をしていたのだろう。右手にはベージュ色のテープ。左手にはそれを綺麗に切断するためのハサミを持っていた。
そういえば、彼女の名は――
「舞華?」
部屋で待っているはずだった恋人の顔は、ありえないほどに痩せていて恐ろしかった。血走った目が彼を捉える。
神宮司は思わず後ずさる。
罪悪感が、淀んだ心の底からゆっくりとせり上がってきた。
「ね、つかさくん。どうして帰ってきてくれないのかな」
それは、このエレベーターが止まらないからだ。
いや、もうすでに止まっているのかもしれないくらいに、動向がよくわからないのだけれど――少なくとも扉が開く気配はない。
そもそも……扉なんて、存在したのだろうか。この箱に。
最初から、エレベーターなんてものではなかったのかもしれないと、今になって思う。
「わたしね、もうずっと寝られないの。一睡もしてない。つかさくんがいれば寝られるかもしれないって思うのに、帰ってきてくれないから」
――寝られない、か。
なあ舞華、俺はようやくこの世界の仕組みがわかったかもしれないよ。
神宮司は思考する。
舞華は眠れないと言う――そして舞華の元に神宮司は帰ってこない。
そしてこのエレベーターのような箱。ダンボールに蓋をする彼女の癖。
それらを総合的に考えてみれば、自然と答えは出る。
もちろんそんな答えは、先ほどの中年男性がまくしたてたのと同じように、意味のない異常じみた結論なのだけれど。
「舞華、君がなにもかもに蓋をするから、俺はたぶんここにいるんだ」
「つかさくん、何を言っているの?」
「眠れない女と起きられない男は、出会えるはずがないんだ」
「全然わからない」
「君が部屋に積み上げたダンボールを、一個ずつ開けてみればいい」
「つかさくん、怖いよ」
「なあ舞華。君がどうしてここにいるかはよくわからないけど、ここはダンボール箱の中なんだ。そしてたぶん、終わらない夢の中なんだよ」
それだけ告げると、神宮司は舞華に背を向けた。
風で吹き飛ばされていく砂のように、彼女が消失した気配がした。
ひどく悔やまれる。何を悔やんでいるのかすらわからないのに、後悔だけがそこにある。
どこにも責任の所在が見えない。
ただ、悔やんでいる。その感情の動きだけが存在している。
もう誰もいない箱の中で、神宮司は深呼吸をしてみる。
割れた天井から、彼女が手を差し伸べてくれる情景を想像しながら、彼は目を閉じた。
そのときエレベーターが上昇し始めたのを、彼は初めて肌で感じたのだった。
20120619
内田百閒とか稲垣足穂とか、そこらへんの作家を研究テーマとして扱っていたので、自分もその手の作品を書いてみたいなーと思ってみたりして、書いたお話。
「夢をそのまんま書く」のではなく「夢っぽい話を作ってみる」というのは難しいものだと思ったり思わなかったりします。