一人の男性が、雨の中をふらふらとさまよっているのを、伏原ミナミは黙って見つめていた。
江原という名前の彼には、もう『未来』が残されていない。
『未来』がないという現実にどんな意味があるのかは、彼自身にすらわからないだろう。
何をやっても意味がなく、生きていることそれ自体にも意味がなくなった――そんな風に捉えているのだろう、と伏原は思った。
伏原は他人の心が読めるわけではないが、江原の気持ちはわかるつもりだった。
なぜなら、伏原も江原と同じように敗北したからだ。
金融街での敗北。債務超過。破産。
金融街という他者によって行われる、自己という存在の完全否定だ。
破産したことのない人間に、この気持ちはわからないだろう。少なくとも伏原はそう思う。
当たり前のように勝ち続けられるアントレや、要領よく破産を免れたアントレには、敗北者の気持ちなどわからない。
『未来』が目の前で消されてしまった人間の気持ちなんて、『未来』をもつ人間に分かるはずがない。
伏原が江原をこうして見つめているのは、彼が自分と同じやるせなさを共有しているからだ。
「――先生、こんばんは」
初めて彼に話しかけるとき、何を言おうか伏原はずっと考えていた。実際は、案外すんなりと普通のあいさつができた。
うつろな目のまま、江原が振り返る。彼が立っているのは道路の白線すれすれの場所で、少しでもふらついたら車に轢かれてしまうような危うい位置だ。
「すまないが、学生の名前を全部覚えているわけではなくてね。君は誰かな」
江原はぼそぼそとそう問いかけてくる。伏原は笑おうとしたが、うまく笑うことはどうしてもできなかった。
「伏原ミナミ。三年生。先生の気持ちを世界で一番理解してる人間です」
江原は自嘲するように笑った。「俺の気持ちが君に分かるはずがない」
「まあ、究極的に言って、他人の気持ちなんて分かるはずないものですよ。ただ、私は先生と同じように金融街から追放されたんです。だから、追放されて、存在をなかったことにされた人間の気持ちは分かる……そういう意味です」
伏原がそう言ってぎこちなく笑んでみせると、江原は少し表情を和らげた……ように見えた。
「私のアセットは、かわいらしい男の子の顔をしていました。あれは、いったいどんな未来の象徴だったのでしょうね。私が誰かと恋愛して、その結果生まれてくる男の子でしょうか。それとも、そんなこととは全然関係なく、いずれ出会うはずだった誰かの顔なのでしょうか」
伏原がそう語ってみせると、江原も自らのアセットについて少しだけ語った。あれはたぶん、三人目の子供の顔だった――などと。
「おかしいですよね。未来が失われたから、とっくに死んでいてもいいはずなのに。まだ生きている。これは一種のバグのように思えるんです、私」
「あくまで、失われたのは担保にされた未来だけなのだろう。担保にしていない残りかすの未来だけで、これからは生きて行けということだ」
「真坂木は言ってました。『金融街は寛容だ』って。私、それはいい意味で言ってるんだと思ってた――でもそうじゃない」
伏原は江原の顔色をうかがいつつ、続ける。
「寛容というのは、興味がないということです。完全なる放任主義です。何をしてもかまわないけれど、興味なんてないから放っておくということです。幸せになろうが、不幸になろうが、死んでしまおうが、自由なんです。そして私たちには、不幸になって死ぬ自由だけが与えられている。そんな気がしませんか?」
江原は答えなかったが、伏原はそれを肯定の返事として受け取った。
「……先生は、自殺を悪だと思いますか?」
その問いを聞いて、彼は苦笑した。
「道徳の時間ではないのだから、そういう話はなしにしてほしいものだ」
「では、先生という呼び名をやめて――ひとりの元アントレとして、江原大介は、自殺を悪だと思いますか」
「……悪だとか悪でないとか、そんなのは外野が決めることだ。死しか残されていない人間にとって、悪だとか正義だとか、そんなことはどうでもいいことだよ」
「そうですね。先生の言うとおりです。たとえ悪だと蔑まれたとしても、この死にたい気持ちは誰にも消せないから」
死にたい、という言葉を口にした瞬間、急に息苦しくなった気がして、伏原は息を吸う。車の排気ガスが多分に含まれた都会の空気は、どうにも不味い味がする。
「ここは終着点です。もう何も生まれない。私にとって、アセットであるあの子は光でした。この世界でたった一つの希望のようでした。戦うことで未来が切り開けるなら、いつまでだってあの子と一緒に戦いつづけようと思った。でも、もうそんな未来はどこにもない」
伏原ミナミは、相手の言葉をはさむ暇を与えず、一気にそう告げて笑った。
しかし、一番言いたい言葉は言わずにおいた。
「先生……もしもまた生きて会えたなら、お話がしたいです。もし、よろしかったら……来週もこの時間、この場所で、待っています」
「ああ、たぶん会えないような気がするけれど――会えたら、会おう」
彼の声には魂が入っていないような気がした。おそらく、自分もそうだろう。
もう、生きてなんかいないのかもしれない。
担保にしたのは自分自身ではなく、『未来』だけれど。
そのとき、犠牲にしたのは自分自身の魂なのだ。
だからこの時間と空間は、本来は存在しないのだ。
この約束も、無意味だ。
それでも、もう一度この場所でこの人に出会えたなら。
自分は温めていた問いを彼に投げかけてみようと思う。
20131020
問われることのない問いは心のどこにも存在せず、
歩むことのない未来も、もう存在しないというお話