わたしは最初から負けていたのだ。兄上に自分から勝負を持ちかけたその時点で。
 何度も何度も飽きることなく挑んでくるルルーシュと違い、兄上は自ら勝負を仕掛けてくるということがなかった。たまにチェスの誘いを持ちかけてくるときもあったが、彼はまず、勝とうとすることがなかった。彼の駒の動かし方には「勝つ」「勝たねばならない」という明確な意志が存在していない。ただなんとなくその場で右往左往するだけで、兄上の駒は次々と盤上から消滅してゆく。負けても彼は笑うだけだ。シュナイゼルは相変わらず強いな、などとつぶやきながら。
 そんな相手に勝って、何が楽しいというのだろう。無防備な相手をむりやり打ち負かしたところで、自分のためになどならない。わたしは彼に勝負を挑むことをやめた。そのうち、接触する機会も少なくなり、あまり顔を合わせなくなった。それでも、兄上の顔が脳裏に浮かんでどうしようもなくイライラとすることは何度かあった。自分は要するに兄上のことがあまり好きではないのだな、と気づいたのが数年前のことだ。自分は誰のことも平凡に愛せて、許せる、という慈悲深い人間なのだという自負があっただけに、この感情は不可解だった。


猫と建前


「この部屋は、少し広すぎると思わないか」
と言ったのは兄だった。常に自分を過小評価する彼らしい台詞だな、とわたしはわけもなく思った。兄の私室を見渡すが、そんなに広い部屋だとは思えない。自分の部屋の方が広いくらいだ。しかし、わたしはこう答える。
「確かに、そうかもしれませんね」
我ながら当たり障りのない返答だ。「確かに」という言葉はひどく便利だ。どんな会話においても、相手を肯定しておけば角が立つことは少ない。昔から知っている、処世術のようなものだ。
 兄は困ったように笑った。しかし別段困っているということはない、とわたしは知っている。いつだってこの人はこんな顔なのだ。
「……シュナイゼル」
不肖の兄――彼ほどこの単語が似合う男もそうそういまい――はおそるおそるわたしの名を呼んだ。
「あのさ。猫のこと、覚えているかい」
「猫?」
唐突な話題だった。記憶を掘り起こすが、特に該当する記憶は見つからない。
「すいません兄上、覚えがありません」
わたしが謝ると、兄は申し訳なさそうに眉を寄せた。
「いやいや、君が謝ることなんてないんだ。ただの昔話で、思い出話なんだから。まだルルーシュやナナリーが、この国にいた頃の……」
ルルーシュ、ナナリー。その名前を聞くのは久々だった。今は死んだことになっている、弟と妹。その顔を思い出しながら、記憶を脳の奥からずるずると引きずりだす。すると、芋づる式に「猫」の記憶がよみがえってきた。
「思い出しましたよ、兄上」
わたしはほほ笑む。
「あの二人が木に登って助けた猫のことですね?」
「そうそう」
嬉しそうに無防備な笑顔を作る。……わたしは感情を顔に出さないように気をつけつつ、ほんの少しだけ苛立つ。わたしは、こんな風には笑えない。
「兄上は、あの猫を飼いたいと言って、兄妹と一緒になって父上にわがままを言っていましたね」
涙目で駄々をこねるルルーシュとナナリー、そして二人に付き添う年の離れた兄の姿を思い起こして、わたしは微笑した。兄妹はともかく、兄上がそんな風にわがままを言うのは珍しいことだったので、よく覚えている。木から下りられなくなった猫。その猫を木に登って助ける兄妹を、マリアンヌ王妃や護衛の者、そしてわたしと兄上がはらはらしながら見守っていた。今はもういない人たちが、幸せだったころの思い出だ。
「……あのときは、どうしてあんなに必死だったのかな。自分でもよくわからない」
兄は遠い目をして言う。
「あの猫の目、とっても澄んだ紫色だったんだ。まるでサファイアみたいで、ずっとずっと、いつまでも……眺めていたかった」
「……詩人ですね、兄上」
猫の瞳が宝石みたいだなんて、自分は絶対に持ちえない感情だ。羨ましいとは思わない。ただ、この人とは根本から感性が違うのだと思い知る。兄弟なのに、違う世界に住んでいるような気がしてならない。
 今のブリタニアを、この穏和な兄はどう考えているのだろう。実の父が世界を蹂躙してゆく様を、そしていずれ、その蹂躙され占領された世界が、自分のものになるかもしれないという現実を、彼はどんな風に捉えているのだろう。
 わたしには、この世界はチェスの駒にも劣る、つまらないおもちゃにしか見えない。強い者が勝利し、弱い者は勝者に従うしかない盤上の世界。
 わたしは強い。この兄は、弱い。どうしようもなく弱い。いずれ、この兄はわたしの手で淘汰されてゆくのかもしれない。彼だって、自分の立場の危うさを理解しているはずだ。いつまでも「皇子」では、いられないのだから。
 そんな風にいろんなことをつらつらと考えていたわたしに、彼はおどおどと問いを投げた。真剣な表情。しかし内容は、年に見合わぬものだった。

「……シュナイゼル、君は――今、もしあの猫がここにいて、ルルーシュやナナリーも共にいて、そしてわたしがあの猫を飼いたいと言ったら、いいと言ってくれるかな」

わたしは思わず笑ってしまった。作り笑いでない笑いを浮かべるのは、とても久しぶりのことであるように思えた。
「何をおっしゃるんです、兄上。兄上はもう大人なのですよ。それに、この国の第一皇子でもある。もう、昔とは違うのです」
励ましたつもりで言ったその言葉を聞いて、彼は何故か表情を曇らせた。
「そうだね、もう昔とは違う……ルルーシュもナナリーも、もういないんだもんな……」
弟たちの名前をつぶやきながら、わたしの兄は困ったように頬を指で掻いた。
 わたしは、何も悪いことなんて言っていない。当然のことを言っただけだ。しかし、……なんだか悪いことをしたような気分になってしまった。
「もしも」
眉をよせて泣きそうになっている兄に、わたしは思わず、こう言っていた。
「もしもここにあの猫がいて、兄上が『一緒にこの猫を飼わないか』とおっしゃったら、わたしは迷わず頷きますよ。だから、泣かないでください……兄上」
子供を諭すような口調になってしまった。とても兄に対する態度とは思えない。昔からこの兄はこうなのだ。弟たちが気をもんでしまうほどに、頼りない。
「な、泣いてなんかいないよ」
と言いながら、彼は瞳の端に浮かんだものをぬぐった。
 そしてこう言った。

「シュナイゼルは、やさしいね」

 誰よりも世界に優しいのはあなたの方ですよ、兄上。
 その一言を口に出さずにつぶやいて、わたしはもう一度作り笑いではない微笑を浮かべた。たとえ世界をすべて手中に収めても、この兄の心だけは、わたしには支配できなさそうだな、と思った。
 自分はこの人を嫌いなのだとずっと思っていたけれど、もしかしたら、好きとか嫌いとか、そんなのはどうでもいい些末なことなのかもしれない。苛立つのは、羨ましいからなのかもしれないし、鬱陶しいと思うのは、彼の考え方が自分にはない魅力を放っているからなのかもしれない。今はただ、この人の心はとても汚れがなく美しいな、としみじみと考えることしか、わたしにはできない。いつかその美しい存在を、わたし自身が踏みにじってしまうとしても。




080901

オデュッセウス兄上があまりにもすてきだったので勢いで書いた
反省はしていない!!
兄上かわいいよ兄上