なみだのかたち

 嫌な夢を見た。ただただ過去を繰り返す夢。気持ちの悪い夢だった。悲しい夢でもあった。起きた瞬間、自分が泣いているのに気づいた。夢の中の自分は、たぶんもっと苦しくて悲しかったのだろう。過去なんて消えてなくなってしまえばいいのに、と秋沙は思う。今も幸せとは言い難い状況だけれど、あの頃よりはずっとましだった。
「…………っ」
誰かが息を呑む気配がして、思わず目を閉じた。起きているとひどいことをされる。あの頃秋沙はいつもそうだったから、今でも人の気配を感じると寝たふりをしてしまう癖がある。今はそんなことをする必要はない、と体が覚えるまでには、まだ時間がかかるのだ。
「必然。泣きたければ泣けばいい――が、夢の中でまで苦しむとは、本当に悲劇としか言いようがない」
それは彼の独り言だった。秋沙の狸寝入りには気づいていない、アウレオルスの――独白だった。
「……憮然。利用するだけだと考えていたはず。このような感情は、計画の邪魔になるだけだというのに」
小声でつぶやく彼の手が秋沙の頬に触れ、涙をぬぐう。冷たい手だった。その間、秋沙はただ静かに寝ているふりをしていた。きっと、彼は秋沙が起きていることを知ったら、気まずく思うだろうから。
「凛然。今は、眠ればいい。できるだけ安らかに。来たるべきその日が来るまでは」

 その日、と彼は言った。それはいつ、来るのだろう。秋沙の目的に終わりはないけれど、彼の目的には終着点がある。吸血鬼を呼び、そしてそのことによって誰かを救うのが彼の願いらしい。その願いが達成されたら、もうこの人は秋沙のそばにはいてくれないし、ディープ・ブラッドの力を抑えることもしてくれなくなってしまうのだろう。こうして語りかけてくれることも、涙を拭ってくれることもなくなる。できれば、このままでいたいと秋沙は思う。今は、自分のせいで誰かが死ぬことはない。三沢塾の生徒たちは犠牲になりつづけているけれども――彼らは生きている。秋沙のせいで死んでいった無数の吸血鬼とは違って、ちゃんと生きている。自分のせいで誰かが死ぬのはもう嫌だ。アウレオルスといる限り、理不尽な暴力を受けることも、吸血鬼を殺すこともない。彼と一緒にいる今が、秋沙にとってベストな選択であるような気がする。それ以上の幸せなんて、きっと望んでも手に入らない。そもそも手に入らないことが怖いから、秋沙はそんなことは最初から望まない。望むことは、かなり前にやめてしまった。

 ……しばらくすると、隣のベッドから寝息が聞こえてきた。そっと目を開けてみると、アウレオルスが普段どおりの無表情で眠りに落ちているのが見えた。先ほど秋沙が眠りながら泣いていたように、彼も時折苦しげに呻いたり涙を流していたりするのを、秋沙は知っている。たぶん世界中で秋沙だけが――それを知っているのだ。

 さっき彼にそうしてもらったのと同じように、秋沙も一度だけ、彼の涙を拭ってあげたことがある。彼の頬は彼の骨ばった手と同じくひんやりとしていて、その冷たさがとても彼らしいと思った。その冷たさが、好きだった。自分に似ていると思った。この先、どんな未来が待っていても、その気持ちは消えないと秋沙は信じている。

 彼が秋沙のことを忘れて去っていくとしても、用済みになった秋沙を殺してしまうとしても、彼が今日、秋沙の涙を拭ってくれた事実は消えない。今、秋沙が彼に抱いている、憐憫に近いこの感情も消えることはない。一度抱いた気持ちは、絶対に消えない。それは苦痛であり、そして誇りだ。そんなことを考えながら、秋沙は彼に倣うように、眠りに落ちた。今度は、夢は見なかった。


090329