ニセモノラル
彼は世界の美しさを知っていたし、世界の成り立ちも知っていた。錬金術という名の理も、自分自身の名前も、全部知っているつもりだった。自分で見つけ出した真実も、守るべき対象も、救うべきものの存在も、知っているはずなのに、本当は知らなかった。知ろうと思わないように、プログラムされていた。彼は欠陥品だったが、自分に欠陥があることを長い間、知らずにいた。
自分というものの危うさを知っていた。自覚していた。そして、彼女のことも知っていた。彼女は彼に会ったことがなかったけれど、彼は彼女のことをよく知っていた。
「姫神、秋沙」
遠くからしか見たことのない、巫女服姿の少女の名前を、彼は覚えていた。彼女の憐れむべき境遇も、恐るべき能力も、知識として脳にインプットされている。
美しい少女だと思う。彼女がその能力を使うところを彼は見たことがないが、吸血鬼を寄せ集めて殺すその力、きっと美しいものだろう。誇るべき錬金術で人体を破壊することが彼にとってとても楽しいように、彼女が吸血鬼たちを殺すさまも、美しいものであるべきだ。
アウレオルスは思う。この世界は嘘だ。信じられるのは錬金術と自分だけで、他は信用できないものばかり。まるで偽物だ。みんな、黄金になって消えてしまえばいい。人間なんて、瞬間錬金の材料にすぎないのだから。
しかし彼は一方で、姫神秋沙に触れてみたいとも思っていた。言葉を交わして、一緒に何かを考えて、共に行動して、その能力について調べてみたいと――それは彼の、錬金術師としての、学者としての本能から来る願望だろう。他の気持ちなんて、彼は知らない。何一つ、知らないのだ。
自分が生きている意味も、どうしてここにいるのかも、今まで何をして生きてきたのかも、自分は本当は『誰』なのかも、全部全部、知らない。そういうことは、考えないようにしてきた。考えたら自我が崩壊する。自分が自分でなくなってしまう。絶対に、考えてはいけない。避けて通らなければ、自分を守れないから。
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そして、今。彼女が彼の目の前にいた。彼の左腕と左足はすでになく、彼女も血まみれの状態だった。ずっと焦がれていた彼女がすぐそこにいると言うのに、すでに彼の思考の中に彼女はいない。材料となる人間を引きずりながら、彼は姫神秋沙の前に立つ、黒髪の少年と対峙している。その少年を、瞬間錬金で殺すことしか……今の彼は考えていなかった。
そんな彼に、「かわいそう」と少女は言った。秋沙がアウレオルスに、初めてかけた言葉がそれだった。
「気づかなければ。アウレオルス=イザードでいられたのに」
その瞬間。彼の中で、何かが瓦解した。すでに、先ほど赤髪の神父に出会い、左腕と左腕を切断された時点で、彼の理性は完膚無きまでに壊れていたのだが、それを、姫神秋沙の言葉が、完全に壊した。気づかせた。
世界は嘘だと思っていた。
何も信じられないものだと、ずっと感じていた。
でも、それは当然だった。偽物だったのは、世界ではなく――自分自身だったのだから。
気づかなければ、いつまでもアウレオルス=イザードという名の天才でいられただろう。自我を保っていられたし、腕や足をなくすことだってなかったはずだ。自分は人ですらなく、ただの道具にすぎない偽物なのだ。
それでも、彼女だけは本物だと思っていた。彼女の美しさは、儚さは――本物だったはずだ。本物であるからこそ、彼は彼女に焦がれていたのだ。その気持ちすらも偽物だというのなら、もうこの世界に価値なんてない。
『幻想殺し』に義足を引き抜かれ、本物のアウレオルス=イザードに命を奪われるその瞬間まで、アウレオルス=ダミーの意識から姫神秋沙の姿が消えることはなかった。ただし、記憶の中の彼女はとても悲しそうな顔をしていた。上条当麻の背後で、戸惑うように顔を伏せていた。アウレオルスは考える。自分はどこで間違ってしまったのだろう。自分は量産品で、欠陥品で、人間じゃない。利用されるだけ利用されて、朽ちていく存在。でも、感情も肉体も確かに持っていた。確かに、『人間』だった。
人を殺してもいいと思った。誇るべき瞬間錬金のためならば。だが、人をたくさん殺して、利用して――その果てには何もなかった。何を目指していたのかすら、もうわからない。間違っているとすれば、自分という存在自体が、一番大きく間違っていたのかもしれない。人間のレプリカなんて、人を模しただけの模造品なんて――この世界には、いらないのだ。最後の最後で、彼はようやくその事実に気づいた。
090330