美しき少女たちの地獄
彼は禁書目録にひとつだけ頼みごとをした。彼が彼女に何かを頼んだのは、それが最初で最後だった。
名前で呼んでほしい、一度だけでいいから――彼はそう言った。それまで、禁書目録はずっと、彼のことを「先生」と呼称していた。
「あうれおるす……で、いいの?」
不安げに首をかしげながら、禁書目録は彼の言ったとおり、名前で彼を呼んだ。
その瞬間、胸がうずくように痛んで、彼は自分の浅はかさを後悔した。
自分はどうして、この子を助けてあげられないのか。傍観していることしかできないのか。
「あうれおるす……なんで、そんなにかなしそうなの?」
「全然。……なんでもない」
今日でお別れだからだ。自分の役目も、禁書目録との思い出も、ここで潰えて消えてなくなる。
そんな事実は、もちろん口に出せるはずもない。
明日、彼女の脳からすべての記憶が消えてなくなる。十万三千冊を背負った少女の血の宿命。
この日が来ることはわかりきっていた。最初から決められていた。なのに。
これまで必死に積み上げてきた、これまでのすべてが、少女のうちから消えてしまう。あっけなく抹消されてしまう。
それが何を意味するのか、彼女自身は知ることのないまま――
「あうれおるす、ないてるの?」
声をかけられてから、自分の頬に涙が伝っていることに気づく。慌ててぬぐおうとすると、彼女が手を伸ばしてきた。彼が少ししゃがんで彼女に視線を合わせると、少女の手が彼の涙をぬぐった。
「ああ、ありがとう――そして、」
さようなら。少女には聞こえないような小声で彼は告げる。
今日でおしまいなのだ。アウレオルスという男は少女の中から完全に消えて。明日から、この子は違う相手とともに生きていく。
まるで、アウレオルスなんて最初からいなかったかのように――
+++
「どうしたの?」
ベッドから身を起こすと、部屋にたたずんでいる巫女服の少女と目が合った。どうやら、自分はうなされていたらしい。
「……厳然、なんでもない」
そう言ってごまかそうと思ったが、ぽつりと一言だけ、彼はつぶやいた。
「……救えなかった少女のことを、考えていた」
十万三千冊を背負った地獄。その地獄に、蝕まれたことがある。少女の体を犯す猛毒に、彼も触れてしまった。そこから体に毒がまわり、全身に毒が回ってもなお、這いずるように生きつづけている。少女の中の記憶は消えても、彼の中の記憶は消えない。残酷な決めごとだった。思い出の中が幸せであればあるほど、今の自分がみじめに思えてならない。それでも、触れなければよかったとは思わない。死ぬまでこの毒を抱いて、生きていかなければならない。それが、毒に触れたもののさだめだ。傍観者のままでいれば、きっと不幸にはならなかった。でも、彼は触れることを選び、ここにいることを選んだ。十万三千冊の地獄を救い出す。ただ、それだけのために生きてみせると決めた。
「……そう」
姫神はそれ以上何も言わず、窓の外へ視線をやった。彼はそれにつられるようにして窓の外を見た。窓の外は薄暗く、太陽の光が差すまでにはまだ時間がかかるだろうと思われた。そして、もし光が差してきたとしても、その光は彼を照らし出すことはない。
+++
「わたしはあの地獄を救ってやりたい」
そう言った彼の目はとても遠いところにある理想を見据えていた。その理想は、現実から遠く離れた場所にあるのではないか、とそのとき秋沙は初めて危惧した。
――地獄は、救われることがないから地獄なのだ。
同じ地獄である秋沙にとっては当たり前のことだったが、彼はそれに気づいていないようだった。
言わない方がいいだろう、秋沙はそう結論付ける。
彼は「地獄」を救うことができると信じて生きてきた。ただ救うためだけに、前進してきた。それに対して、現実をつきつけ、彼の努力を否定するなんて残酷な行為は――少なくとも秋沙にはできそうにない。
彼が願う地獄の救済を、秋沙も確かに願っている。もしかしたら、実現するかもしれない。
けれど、……救済、なんてものは本当に存在するのか。ただの絵空事ではないと、どうして言い切れるというのか。もし救済というものが本当にあるのなら、なぜ秋沙はいまだ救われずにこうして地獄のただなかにいるのか。
「……憮然。どうした?」
彼は突然黙り込んでしまった秋沙の顔を覗き込んだ。その瞳はとても澄んだ色をしていたけれど、疲れ切って憔悴していた。
「なんでもない」
秋沙は一瞬、水から顔を上げたときのように息をついで、こう言った。
「あなたの願う救済を。わたしも同じように願ってる」
もし、願う人が多ければ願いがかなう未来に近づくことができるのなら、彼とともにここで祈り続けよう。ただただ美しい理想を謳い、いまだ訪れない幸福を夢見ていよう。救われない地獄である姫神秋沙は――そう決意して、少しだけ笑んだ。
090612