浸蝕する

 憔悴しきった彼が何日も寝ていないことを、秋沙は知っていた。ずっと一緒にいたのだから、知らない方がおかしいというものだ。
 知っていたからこそ、椅子から立ち上がろうとした彼の体が、不安定に傾いだとき、思わず手を伸ばした。アウレオルスは机にしがみつくようにして転倒を防いだが、彼はさしのべられた秋沙の手を、さりげなく退けた。彼の体が不自然に震えるのを、秋沙は見た。その怯えたウサギのような動作で、ディープ・ブラッドという単語と自分の立場を、久々に思い出した。
「ごめんなさい」
秋沙は、謝りながら身を引いた。嫌なところを見られた、と言いたげに、彼は気まずそうに目をそらす。
「憮然。謝るのはそちらではなくわたしの方だ」
アウレオルスは、少し震えた声で言う。
「どうして?」
「自然。姫神秋沙。美しきディープ・ブラッド。吸血殺し。そんな名称も現象も、わたしに恐怖を与えることはない。そんなものが怖くて、体が震えたわけではない。わたしは吸血鬼ではないのだから」
「では。何が怖いというの?」
彼は黙ったまま思案しているようだった。秋沙は重ねて問う。
「他人が怖い? それとも、わたしという個人が怖い?」
「悄然。わたしは――」
アウレオルスは、苦々しげに吐き捨てる。
「――わからない。怖いのは、自分自身か。それとも、自分以外のすべてか。しかし、どれだけ周囲を恐れても、わたしには黄金練成がある。すべてを理想のままにする異能が。それだけが救いなのだ」
彼の首にいつも刺される鍼の鋭さを思い起こした秋沙は、それは救いではない――という言葉を、言わずに飲み込んだ。

「ええ。あなたはきっと幸せ。あなたが幸せを信じる限り、幸せでいられる」

 それは、たとえば、アウレオルス=ダミーが自身をアウレオルス=イザードだと信じている限り、誇り高い錬金術師と同一の存在でいられるように。
 黄金練成の万能を信じている間は、彼はそのままの精神を保つことができる。
 姫神秋沙は、ディープ・ブラッドという異能を捨てたいと思っているが、アウレオルスはそういう風に異能を扱うことはない。
 彼にとって、錬金術という異能は、自己を現すすべてなのだ。失ったら、生きてはいけないくらいに大切な。
 秋沙は、願わずにはいられない。誰も、彼を裏切りませんように。
 せめてその錬金術という力だけは、彼の救いでありますように。
 人と触れあうことすら怖がってしまうこの臆病な男の、最後の望みが錬金術という美しいまやかしであるのなら。
 そのまやかしだけは、彼を裏切ることがありませんように。

「幸せ、か」

 珍しく少しだけ微笑を浮かべて、アウレオルスは秋沙の言葉を反復した。
「当然。もしも幸せというものを錬金術で手にできるのなら、わたしは禁書目録だけでなく、哀れなディープ・ブラッドにもそれを与えてやりたいと……思う」
「ありがとう」
 彼は照れたように語尾を濁した。秋沙はあえて冷えた口調のままで、礼を言った。
 きっと、そんな約束は彼の気まぐれだ。もし幸せを練成できるようになったら、彼は禁書目録にありったけの幸せを贈るに違いない。
 秋沙には、自分自身を幸せにすることすら忘れて、大好きな少女のために、自分のすべてを使い尽くす彼の姿が見えた。
 アウレオルス=イザードは、そういう男だ。秋沙はそんなことを考えながら、自分の幸せの可能性を少しだけ、前向きに、諦めたのだった。



101029


アウレオルスは他人と接するのが苦手なような気がする。
秋沙はそもそも他人と接したことがあんまりなさそう。