「ねえ、松田の夢ってなあに?」 無垢な声で、幼い少女は彼に尋ねた。 「……お嬢様の夢は、なんですか?」 「私の夢は、カリンさまのような立派なプリマになることです」 「では、松田の夢は、その夢が無事に叶うことです」 彼の答えを聞き、少女はふてくされたように頬をふくらませて眉間にしわを寄せた。 「そんなの、夢じゃないわ」 彼はいつもの調子で、はぐらかすようにふわりと笑顔で答える。 「ちゃんとした夢ですよ。お嬢様の夢は、同時に松田の夢でもあるんですから」 遠い遠い日に交わした会話だ。 あれから数年――彼女は一流のプリマになった。 二人の共有した夢はあっさりと叶って、そして彼女は今……彼の元にはいない。 リトル・ワールド 自分は今幸せだ。お嬢様の幸せが、自分の幸せだから。それは絶対に揺るがない事実で、真実のはずだ。 だが、幸福に反して、毎日がとてもからっぽで寂しいのも事実だ。「寂しくない」ことと「幸せである」ことは必ずしもイコールで結べるものではない。退屈を埋めるため、もはや習慣と化している家事をしてはみるものの、自分のためだけにする家事は予想よりはるかに空しかった。 こんなにも寂しくて空しいのなら、あのとき、別れる前にお嬢様に思いを伝えてしまえばよかったのではないかと、ふと思う。もし、すべてを最初からやり直すことができたら。私はお嬢様にすべてを伝えることができたのだろうか……否、そんな仮定は意味をなさない。私は「伝えない」方を選んだし、お嬢様も私ではなくあの人を選んだのだから。 お嬢様が幸せならそれでいい。心の中で何度もそう繰り返したのに。 お嬢様が幸せなら。 そう言いつつ、それを言い訳に使って盾にしていることに気づいてしまう。 祝福して笑顔で送り出したはずなのに、心の中はどうしようもなく未練と後悔でいっぱいだ。ずっと、彼女の存在にもたれかかって生きていた自分自身の怠惰さと、彼女は自分なしでも立派に生きているという事実に、心底打ちのめされている自分。こんな自分には、本当に嫌気がさす。 松田は広い部屋の真ん中で横になっていた。外からは小さな街灯の明かりが少し入ってくるくらいで、部屋の中はひどく薄暗い。部屋の灯りをつけるのは面倒臭い、と思った。誰もいないのに灯りなんてつけたって無意味だ。それに、灯りをつけたら、部屋に自分以外、誰もいないことを再認識しなければいけない。それは嫌だ。 「お嬢様……松田は、寂しくて死んでしまいそうです」 ぼそりとつぶやいた言葉は甘えだった。彼女には聞こえないからこその、弱い言葉。 それはもちろん、主人にも、それ以外の誰かにも絶対に聞かれないという前提で言った独り言だったのだが、なぜかそれに対して、誰かがこう言った。 「……松田さんらしからぬ言葉ですね」 驚いて起き上がる。何を考えているかわからない笑みを浮かべる男と目があった。さらさらの髪。女性ものにも見える、清潔感のある黄緑のカーディガン。この人に会うのも、考えてみれば久しぶりだった。 「如月……先生?」 どうしてここに?と松田が問いかける前に、如月ナツメは答えた。 「不用心ですね。玄関の鍵、開いてましたよ」 暗闇の中で、彼が苦笑する気配が伝わってきた。 「そ、それはすいません……」 松田が気まずそうに目を伏せていると、 「ノナちゃんに頼まれたんです。そろそろ松田さんが元気なくしてる頃だろうから、見てきてくれませんか、って」 ナツメがそう言い終えて、にっこり笑った。 「来て正解でしたね。松田さん、すっごくどんよりしてる」 「お嬢様が……わたしの、ことを……?」 少しだけ、心に灯りがともった気がした。 (お嬢様は、わたしのことを覚えていて、心配までしてくれた) 従者にはありあまるくらいの幸福だ。とても嬉しい。 「……でも、お嬢様は来てくださらないのですね」 ぽつりと。 うっかり、そんなことを言ってしまった。口に出してはいけない言葉を、心の奥底からこぼしてしまった。 それはわがままだ。従者ふぜいが望んではいけないこと。 主人に甘えるなんて。何かを要求するなんて、してはいけないのに。押し隠して、絶対に誰にも見えないように、ずっと温めていた気持ち。このままでは、その感情が外に晒されてしまう。自分が自分でなくなってしまいそうな不安感が、水底に残る澱のように心に溜まる。 トランプのカードで築き上げた高いタワーが、少しの風であっけなく崩れてしまう。そんなビジョンがふと浮かんだ。 駄目だ、これ以上このことを考えてはいけない。 「あ、あの、如月先生、今のは聞かなかったことにっ」 松田は慌ててそう言ったが、如月ナツメは困ったように指で頬を掻いた。 「うーん、ぼくはそうしてもかまわないけど……」 ぼく「は」というのは――他に誰か、この話を聞いている者がいるかのような言い方だ。松田は首をかしげた。 「如月先生以外に、誰かいらしているのですか」 ナツメは何も答えなかった。同時に、彼の背後ですっと誰かが動く気配がした。 薄い灯りに照らされて、そこに見えたのは……懐かしい少女の顔だ。青い髪。気の強そうなまなざし。彼女は美しく気高いプリマで、そしてずっと会いたくて仕方なかった――大切な人。 「お、じょうさ、ま……?」 「暗いところで灯りをつけないでいたら、体に悪いと言ったのは誰だったかしら」 少し怒気を含んだ口調で、結城ノナがそう言った。 「お嬢様? どうして、ここに」 「……あなたが。独りでもちゃんとやっていけているのか、心配だったの」 何も答えず呆然としている松田に、ノナは人差し指をつきつけた。 「元セント・アスパラス首席、今は一流のプリマ。そんなわたしの従者たるものだというのに――あなたはなんで明かりもつけず、何もせず、めそめそと泣きごとを言っているのかしら」 「だって、お嬢様……わたしは」 泣きそうな声になってしまっているのが自分でもわかった。そんな松田を、ノナは叱責する。 「胸を張りなさい。あなたはもう、何もできないダメ執事じゃない」 「松田は……松田は、いつだってダメなんです。お嬢様がいないと、ダメ、なんです」 「……そんなの、たいしたことじゃないわ」 「たいしたことです。だって、お嬢様は、松田がいなくても立派に生活しておられるのに……松田は、お嬢様のことが、忘れらなくて」 それを聞いたノナは、こちらへと歩み寄った。下を向いて立ち尽くしている松田の前にノナが立って、彼を見上げる。そのまなざしは、少しだけ優しい。 「馬鹿ね。わたしだって、正晴と一緒に過ごしていても、あなたのことを忘れた日は一日もないわ」 ノナは照れくさそうにぷいと視線をそらした。 「だって、正晴ってば松田の心配ばっかりしているんだもの。『松田さん、一人で大丈夫かな』『今頃寂しくて泣いてるんじゃ』……正晴、そんなことばかり言うのよ。わたしと二人っきりだっていうのに、それを言われるたびにいいムードが全部台無し。だから、忘れたくたって忘れられるわけないの……あなたのこと」 「おじょうさ……」 松田の声を途中で遮って、ノナは彼の手を取った。彼女の手のぬくもりがダイレクトに伝わってきて、松田は思わず硬直してしまう。 「ね、松田。正晴もわたしも、あなたとは一緒にいられないけれど――あなたはいつまでもわたしの従者で、執事で、お供で、園芸部の一員で、正晴やみんなの仲間なの。一緒にいなくても、あなたを不必要な人間だなんて思ったりしない。あなたを忘れたりしない。元気、出しなさい」 気の強いノナだとは思えないような、落ち着いた穏和な口調だった。母親に対しているような気分になって、松田は思わず笑ってしまった。 いつのまにか澱は消えていた。心の水は澄んだ色に変わっている。もう怖くなんてない。我ながら単純だけれど――きっと、この単純さが自分の長所で、一番他人に誇れるものなのだろう。 「お嬢様には、かなわないです」 ノナがいつものように余裕のある笑顔で髪をかきあげながら、答える。 「当然です。わたしは、結城ノナなんですから」 彼女の背後で如月ナツメが安心したように笑んだのを、松田は視界の端に捉えた。それに釣られるように彼は、また声を立てて笑った。 080925 ノナルート後の松田はいったいどうしているんだ! 一人で泣いてるんじゃないのか! とずっと心配だったので書いてみた話。 しかしたぶん、一人でめそめそしているよりは、 正晴とノナをあたたかく見守りつつ邪魔しつつ、みたいなかんじだとは思ってます。 そのほうがみんな幸せそうだしね!^^^ |