「お嬢さま~!」
彼がわたしを呼んでいる。
陽気な声。汚れたことなど、何も知らないかのような無邪気な声。
その声を聞きながら、……ふと。
当たり前に思えていた日常が、崩壊してしまったらどうしようかという不安に、狩られた。
その思考は、本当に唐突に訪れた。

『いつまでも一緒に』なんて、そんなのは不可能なことで。
二人とも人間である以上、いつかは別れが訪れる。
わたしのために甲斐甲斐しく尽くしてくれる、馬鹿な執事。
彼との別れも、いつかきっと、来るのだ。
……いつか。


ただひとつわたしに、幸せがあるなら


「図書館に行くわよ、松田」
「へ?」
わたしの言葉に、松田は目を真ん丸くして驚いた。
「お、お嬢さま? 何故突然図書館などに? こちらの世界の御本が欲しいのでしたら、松田が買ってまいりますが」
「それじゃだめなの。わたしが読む本ではないから」
松田は首を傾げて言う。
「お嬢さまが読まれるのではないのですか? では誰が?……石蕗君ですか?それとも秋姫さん?」
「あなたよ、松田」
間髪いれずにわたしがそう答えると、松田は目をぱちぱちと瞬いた。
「わ、たくし、ですか?」
「そう」
「お嬢さまが、わたしのために、……御本を、選んでくださると?」
松田の目がきらきらと輝きだす。
「おぉじょうさまぁ~。こんなわたしのために、そこまでしていただけるなんて!この松田、感動のあまり、涙が……」
と言って、彼は本当に泣き出した。大の男が目の前でめそめそと泣いているというのは非常に奇異な光景だと毎度思うのだが、 彼が泣くことにはもう慣れきっているので、わたしは黙ってほうっておくことにする。
「おじょうさまぁ~嬉しいですぅ~」
松田が涙声でそう言うのを、わたしは沈黙したまま聞き流していた。

図書館に到着してすぐに、わたしは彼のための本を選ぶ作業に没頭した。
数十分かかったが、ようやく彼のレベルに合いそうな本を何冊か見つけ、わたしは彼に声をかけた。
「松田」
わたしは吟味して選んだ数冊の本を彼に手渡した。わたしの背後でずっと直立して待っていた彼は、にっこりと嬉しそうに笑った。
「はっ。ありがとうございます、お嬢さま。では、借りてまいりますね」
弾んだ足取りで彼はカウンターへ向かう。
しばらくして戻ってきた彼は、本当にニコニコと嬉しそうに笑っていた。
「……そんなに嬉しいの?」
思わずそう尋ねると、
「当然でございます!」
という答えが返ってくる。
「ふうん…」
わたしは適当に相槌を打った。
「ところで、お嬢さま。何故、突然、わたしに本を選んでくださったのですか?」
「…………」
わたしは本当の理由を話そうか迷ったけれど、結局こう言った。
「あなたの頭を、よくしてあげようと思って」
「はっ!? わたしの、頭を、ですか」
松田はわたしの言葉の真意が理解しがたいらしく、小さく首をひねった。
「だって、あなたって本当に馬鹿なんだもの」
「………」
少しだけ。
本当に少しだけ、彼が悲しそうな顔をしたので、わたしは両手を挙げて、
「嘘よ。嘘」
と言った。実際はちょっぴり本気だったのだけれど、それは言わないでおく。
「本当はね、証を残しておきたかったの」
「証?」

「わたしが、あなたに感謝しているっていう証。」

「お嬢さまが、わたしに、感謝……うぅ」
松田はまた目をきらきらさせて泣き出した。
わたしはなんだか申し訳なくなって、本心を言った。
「……石蕗君が砂嵐に飛び込んで、ぬいぐるみになっちゃったとき、わたし思ったの。あなたとわたしも、いつかは離れ離れになってしまうんだって。いつまでも一緒にはいられないんだって。だから、あなたと別れる、その前に、証を残したかった。あなたが一人ででも、生きていけるように。それだけよ」
松田はそのとき、ぴたりと泣き止んだ。
そしていたって真面目な顔で、こう言った。
「嫌でございます」
わたしはその意味がわからずに問い返す。
「嫌って、何が?」
「わたしは一生、いや、死んでも、ずっと、お嬢さまにお仕えしていたいです。離れ離れになんて、なりたくありませんっ!」
「は、はぁ?!」
年上の男性のセリフとは思えないほどに、馬鹿らしくて身勝手な言葉だった。常識と摂理を無視した、言葉だった。
けれど――それを愚かだといつものように冷たく言い捨てることが、わたしには何故かできなかった。

「……松田」
「は、はい、お嬢さま」
一瞬迷ったけれど、わたしは勇気を出して、こう言った。
「あなたは、ずっと、わたしの執事でいてくれる?」
「当然でございます、お嬢さま」
片手を胸に当てたいつものポーズで、松田は言い切る。
わたしは、それを見て、安心した……ような気がした。

もやのように心に渦巻いていた不安が、いつのまにか消えていた。
先程と何一つ変わってはいないのに、わたしの心はひどく穏やかで、晴れ渡っている。
それはきっと、彼が、わたしのそばにいてくれるからで。
そして同時に、わたしが、彼と共にあろうと、決めたからで。
何より、明るい彼の声が、わたしの不安を消していってくれることに、気づいたからだと、思う。

もしもただひとつわたしに幸せがあるとしたら、それは、松田がそばで笑ってくれること。
今は、そんな風に感じている。
決して、言葉にはしないけれど。







070920





よくわからない話になりました。石蕗とすももの件で「大切な人を失う可能性」に気づいたノナが 身近にいる大切な人=松田の存在の尊さにようやく気づく、みたいな話が書きたかったのですが、思い切り力量不足でした。
こんなに松田に優しいノナはノナじゃないですね苦笑。

<どうでもいい話>実は話の元ネタは某バンドの曲だったりします。あの曲の男女を逆転させるとまんまノナと松田だと思う。映画館で寝ちゃって 「寝てしまいましたー続きはどうなったのですかーお嬢さまー」って言ってる松田とか、もふもふとジャムパン食べてる松田とか妄想してました。<どうでもいい話ここまで>