一世一代の大手術が行われようとしていた。
「先生……っ! だ、大動脈乖離が……!」
助手のあせった声。緊迫した空気。目を閉じて横たわる青い顔の患者。
その場の誰もが絶望しかけていた。もうだめだ、と。
その中にあって、一人だけ息を乱さぬ、希望を捨てぬ手術着の男。
神の腕を持つ天才外科医、彼の名は――





うしないたくないたいせつな 





どすっ。
ドラマのナレーションを遮り、何か鈍い音がした。
せっかくはらはらしながら手術の成功を祈っていたというのに、台無しだわ!
そう心中で怒りながら、テレビの前のソファに腰かけた結城ノナは、テレビ画面からは目を離さず、騒音を立てたであろう本人へと怒鳴った。
「ちょっと松田! うるさいじゃない」
いつもなら、例の特徴的な声で謝罪の言葉がすぐに返ってくるはずだった。
しかし、彼は何も答えない。
「松田!聞こえないの?」
言いながらノナは仕方なく振り向いた。
するとそこには、目を閉じて倒れている従者の姿があった。
彼はよく転ぶ。また、何かにつまずいて転んだだけに違いない。そう断定しかけたが、彼は一向に起き上がる兆しを見せない。
もしかして、気を失っている……?
そこに思い至って慌てて駆け寄ると、松田の顔色はひどく悪い。意識もないようだ。目を閉じたまま、動かない。
「ど、どうしましょう……!!」
ノナは、さきほどまで見入っていた医療ドラマの内容を思い返していた。
死の病でやせ細り顔色もどんどん悪くなっていく、死へ近づいていく患者の命を、主人公である医者が、奇跡のオペで救うというのが簡単な筋書きだ。
(ま、まさか松田も、死の病に……!!)
今の松田の青白い顔色は、テレビの中の患者のそれとよく似ている。ドラマの中と今の状況を比較して、一点確実に違うことは、ここには、患者を救う天才外科医は存在しないということだ。
『もう二度と、主人は目覚めないのでしょうか……?』
劇中、意識を失った患者の妻が、必死にドクターに対しそう尋ねていたことを思い出し、ノナは身震いした。もう二度と松田が目を覚まさないなんて……嫌だ。もうあの笑顔も、ドジも、涙も、見られないかもしれないなんて……
ノナは居間へ戻り、震える手で小型の電話機を取った。
(頼れる人。誰でもいいから、松田を助けてくれそうな人に……!)
ノナは、決死の思いで、“その人”へ電話をかけた。




「で、ぼくが呼ばれたってわけですか……」
ぼくは医者でも何でもないんですけどねぇ……結城邸に招き入れられた如月ナツメは呆れたようにため息をついた。呼びつけた本人である結城ノナは、ナツメの向かいに腰かけ、顔を真っ赤にして申し訳なさそうに黙り込んでいる。その横で、
「ほんっっっっっとうに!もうしわけ!ありませんでした!」
と涙目になっているのは、この騒ぎの元凶たる、執事の松田だった。
顔色はまだ少し悪いが、大声で謝りながらソファの上で土下座するという奇妙かつ器用なことを見事にやってのけていることだし、特に具合の悪いところはないようだ。
「まったく、医療ドラマの手術シーンを見て気を失っちゃうなんて、……松田さん、ずぶとい神経の持ち主かと思ってましたけど、ナイーブなところもあるんですね」
ナツメはさりげなく失礼なことを言ってのけながら、唇の端を釣り上げて皮肉げに笑った。
そう。
昨今の医療系テレビドラマの手術シーンには、グロテスクなものも多くある。血糊で彩られた赤い画面の中で、作られた内臓がうごめくシーンは妙にリアルで、まるで本物を見ているような気にさせる。そういったグロテスクな描写に慣れていない、もしくは苦手な体質の者は、時たまひどいショックを受けてしまうことがある。脳裏に焼き付いて離れなくなったり、もしくは、ショックが大きすぎて気絶してしまったり……この世界にまだ順応していないフィグラーレの者なら、なおさらそういう状況に陥る可能性が高くなる。松田の突然の気絶は死の病などではなく、そういう経緯で起きたものだったのである。
「もうしわけありません、如月先生……わたしなんかのために、わざわざ夜分遅くにお越しいただいて……」
松田は痛々しいほどにしゅんとしている。ノナはそんな松田を、赤い顔でひたすら睨んでいる。
そんな二人を見て内心にやにやしながら、ナツメはこんなことを言ってみた。
「でも、松田さん。愛されているんですねえ。ぼくに電話してきたときのノナちゃん、すごく心配そうっていうか、必死でしたもん。いやあ、松田さんは、愛されてる」
それを聞いたノナは、顔を極限まで赤くしてそっぽを向いた。松田は幸か不幸か、ナツメの言っていることの意味がよくわからないらしい。ぽかーんと大きく口をあけて呆けた顔をしている。
「わっ……わたしは」
ノナがそっぽを向いたまま言う。
「松田がいなくなったら、その、いろいろと不便だから……それだけです!愛してなどいません!」
彼女は更にこう付け加えた。
「そ、それに! 松田のせいで、ドラマの続きを見損ねてしまいましたわ!さんざんです!」
ノナの剣幕に押されたナツメが押し黙ると、松田が「それでしたら!」と嬉しそうに右手の人差し指を立てる。そしてにっこりとあの無害な笑みを浮かべてこう言った。
「大丈夫でございます!お嬢様の気を引きそうな番組は、すべてビデオ録画しておりますから。もちろん、あの医療ドラマもです」
誇らしげに胸を張る松田。
ノナは松田から視線を外そうとするかのようにうつむき、「仕方ないわね」と言いたげな顔になる。
「なっ……なら、いいけど。もうドラマ見て倒れたりしないでね、松田」
「はいっ! お嬢様!」
元気よく頷く執事と、少しだけ機嫌を直したらしい主人に見送られ、ナツメは結城邸を辞した。
(一件落着、ってやつ、かな)
そうひとりごちて、ナツメは安堵のため息をついた。
このとき、平凡な日常の中で起きた小さなハプニングは終わりに向かおうとしていたのだが……
しかし、如月ナツメが邸宅を辞してから数分後。
彼のあずかり知らぬところで、新たなトラブルが起こっていた。

結城ノナはテレビのリモコンを頼りない執事につきつけ、こう宣告した。
「ちょっと、松田っ! これ、チャンネル間違ってるじゃないっ!!」
松田が、さきほどのドラマが入っているはずのビデオを再生しているテレビの画面をのぞきこみ、しばらくして叫んだ。
「あああああっ! 本当です! チャンネルが、一個ずれていたようですっ!」
そして彼は、ソファに座った主人に向かい、平伏して土下座をした。
「もうしわけ、ございませえええええんっ!!!」
その日は、遅くまで、ノナの怒声と松田の悲痛な叫び声が、結城邸に響き渡っていたということである。


20071205




なないろシアターweb出張版が元ネタだったりしますがほぼ原形をとどめていません。
ナツメさんはわりとみんなに頼られていて、ノナたちやすももたちのどうでもいいトラブルにいちいち呼び出されたりして忙しいのではないかと勝手に思ってます