ドミノエフェクト


 彼から目を離したのはほんの一瞬だったはずだ。なのになぜ、こんな事態が起きているのか。聡明な結城ノナにもそれはわからなかった。
 ノナは落ち着きを取り戻そうと、深呼吸をして周囲の風景を見回した。ここは近所の公園だ。子供たちが遊具で遊んだり、カップルがベンチで微笑みあっていたり、噴水が美しくきらめいていたりする、普通の公園。しかし、彼女とその従者には今、あまり「普通」でない事態が起きていた。
 今、彼女は呆然としつつ、一匹の動物と向かいあっている。
 「彼」は、茶色い上品な毛並みの犬だ。名前はアーサー。ノナはそう記憶している。忘れるはずもない。
「……アーサー」
ノナはその名前を静かに呼んだ。
 アーサーであるはずの犬は、こう答える。
「わんっ!」
犬なのだから当然だ。何もおかしくなどないだろう。……この世界、レトロシェーナにおいては。しかし、結城ノナにとって、それは普段の「アーサー」の返事ではなかった。「彼」がノナに返すべき言葉はありふれた犬の鳴き声ではありえなかった。
「……どうして、喋らないの、松田」
と真面目な目で問うと、問われた犬は不思議そうに首をかしげた。
 そう、彼はただの犬ではなく、フィグラーレからやってきた彼女の執事、松田だ。少なくとも、先ほどまではそこには人の姿をした彼がいたはずだった。
 少しだけ、ノナは彼から目を離した。というか、後ろを歩く松田のことを延々と見張っていられるほどノナは器用ではないし、ずっと見張られなければならないほど彼は粗忽な男ではないはずなのだ。いや、松田は確かに十二分に粗忽ではあるけれども、しかし、彼を監視していなければならないという義務などない。ノナに非はない。そのはずだ。
 しかし今起こっているこの事象、これはどう解釈すべきなのだろう。そうノナは思考した。先ほどまで後ろを歩いていた松田がいない。そして目の前には茶色い毛並みのドーベルマンがいる。さらに、その犬は「アーサー」と呼ばれると返事をする。
 となれば、導き出される結論は一つしかない。
「あなた、もしかして人間に戻れなくなってしまったの……?」
不安の混じった声で尋ねると、「彼」はやはりこう答えた。
「わんっ!」
その返事を聞いて、ノナは頭を抱えた。


 落ち着いて考えてみれば、こういう事態は起こり得るかもしれない、とノナは考えていた。前例は聞いたことがないが、以前に変身薬に関するいくつかの騒動が起きているのは事実だ。具体的に言うなら、レトロシェーナの人間が変身薬を摂取した際にぬいぐるみ化したという件と、常飲していた変身薬が不足した際、松田の頭に犬の耳が生えてしまったという件である。
 ここ最近は、松田の常飲している薬が不足したり遺失したりということはノナの知る限りなかったはずなのだが、松田は非常にそそっかしい人物なので、何かやらかしている可能性はぬぐえない。仮に彼が何もしていないとしても、変身薬の作用が何らかの形で増強、あるいは暴走した、という確率もなくはない。フィグラーレにおける魔法は、レトロシェーナにおける科学ほど結果を予測しやすくない。魔法を行う者のコンディションや、月の満ち欠けなど、不確定な要素を伴うからこその「魔法」なのだ。
「それにしても、こんな前例はないのよね……」
大量の本を自らの机に積み、ノナはそのうちの一冊のページをめくりながらそうつぶやいた。茶色い毛並みの犬はというと、部屋の隅でおとなしく「おすわり」をしているようだ。
 ノナは非常に聡明かつ有能なスピニアだが、まだ学生であり本職のスピニアではない。知識は経験よりも、参考書その他の書物に依るところが大きいのが現状だ。「前例」がない以上、解決方法を書物に頼ることは難しい。認めたくはないが、解決方法をノナ一人で見つけることは不可能に近いようだとノナ自身も気づきつつあった。
 誰かに、助けを求める必要がある。
 フィグラーレの魔法や薬に詳しい誰か。
 ノナの脳裏に最初に浮かんだのは、鮮やかな色の髪を持つ伝説の天才スピニアと、その弟である胡散臭いが信頼のおける教師だった。
 ノナは立ち上がって、電話のある居間の方へ向かうことにした。


 当然のことだが、ノナには秋姫カリンに直接連絡する手段はない。ノナの電話の相手は如月ナツメだった。ちょうど仕事がひと段落したところだったらしく、彼は結城邸にやって来ることになった。
 十数分後、結城ノナは屋敷の応接間で如月ナツメと向かい合っていた。
ノナの話を聞き終わった彼は、相変わらず胡散臭い調子で相槌を打ったのち、
「あのさー、結城さん」
とノナに声をかけた。
「はい」
「言いにくいんだけど……ぼくもフィグラーレの変身薬がそんな風に作用したなんて前例は聞いたことがないんだ。役に立てなくて、ごめんね」
ナツメが申し訳なさそうに目を伏せるのを見て、ノナは慌てて声をかけた。
「あなたが謝ることなんてありません! わたしの不注意で、こんなことになってしまったのですから」
ナツメは困ったように眉をよせて言う。
「『不注意』、ね……結城さん。ひとつ、聞いてもいいかな」
「何ですか?」
ノナが首をかしげて問い返すと、彼はこう言った。
「その、松田さんを見失ったのって、何時くらいのことだったか、覚えてる?」
「えーと……確か、午後一時前後、だったかと」
ナツメの質問の意図がわからないままそう答えたノナに、
「えーと……結城さん、落ち着いて聞いてくれるかな」
「は、はい?」
「ぼく、松田さんらしき人を見かけたんだ。……午後、二時半くらいに」
ノナの表情が驚愕から困惑のそれへと変わる。彼女は尋ねる。
「え……そ、それ、本当ですか。どこでですか」
公園のそばの林で。何かを探しているようだったよ――ナツメはそう答えた。



 松田はそこにいた。ノナが彼を見失った公園のすぐそばの道だ。あたりはもう薄暗く、周囲の視界は悪かったが、ノナの視界に入ったのは確かに執事の松田だった。
 彼はうろうろと歩き回っていたが、犬を連れたノナの姿を見て表情を一変させた。彼の瞳がきらきらと輝きだす。いのししのようにこちらへと突進してきた松田は、予想に反して、彼女の横を通り過ぎて、茶色い犬を抱き寄せ頬ずりをした。
「やっと……やっと、見つけましたよ! もう、どこかに行ったりしちゃいけませんよ、マサ!」
「マ……サ?」
それを聞いてノナの中にあったいくつかの疑問が一気に氷解した。
 二時半にナツメが見かけた松田は何かを探している様子だったという。てっきりノナは、松田は自分のことを探していたのだと思っていたのだが、どうやらそれは違ったらしい。ノナが「アーサー」だと勘違いして連れ帰った犬、それは偶然にもノナの元から消えた松田が探していた対象だった……そして、その犬の名前は、「マサ」というようだ。犬がノナの呼びかけに反応したのは、「アーサー」という言葉の響きが自分の名前に似ていたからだったのか……ノナはかぶりを振った。できすぎているほどの、偶然の連鎖だった。
「あ、お嬢様」
と、松田が顔をあげてノナを見た。どうやら、今この瞬間まで、探し求めていたマサのことしか眼中になかったらしい。松田は慌てて弁解を始める。
「よくお話をさせていただいているご近所の方が、飼い犬がいなくなったというので……」
「探していたっていうの? わたしに黙って」
ノナの言葉には少しだけ棘があった。松田は自分が善意で起こした行動が、主人にどういう影響を与えたかをようやく認識したらしい。落ち着きをなくしておどおどしはじめる彼に、ノナは冷静な声で言った。
「別にいいのよ、あなたが何をしても。わたしにはあなたを束縛する権利なんてない。でも、でもね、松田」
ノナは顔をあげて彼を見つめた。
「心配、したのよ。すごく。」
「お嬢様……」
松田は何を言われたか分からないかのようにきょとんとしたあと、少し笑んで、両手でノナの手を取った。
「ありがとうございます。松田とマサは、幸せ者ですね。いなくなったとき、探してくれる人がいるんですから」
彼は隣で黙って話を聞いているドーベルマンに自分を重ねているようにも思われた。もしかしたら同じ「犬」同士、通じるものがあるのかもしれないが、ノナにそれを理解することは難しそうだ。
 だから、ノナはこう言った。
「そう、幸せよ。あなたも、そこにいる犬も。そして、わたしも」
「お嬢様も?」
「だって、松田が無事に家に帰って来るんですもの。喋らないただの犬になってなんか、いなかったんだもの」
本当によかった、とノナは言った。
 松田が、ではこれから帰りましょうかと口にした。
 夕暮れの帰り道には、二人と一匹の長い影が並んでいた。歩きながら松田がしみじみと言った言葉が、ノナの心の底に残って、いつまでもあたたかくきらきらと瞬いていた。

「自分が思っているより、ずっとずっと愛されているのかもしれないですね、人間も、動物も、みんな……ただ、気づいていないだけで。」



20080321


ひたすらほんわかで少しだけドタバタ、な話が書きたくてこうなりました。
松田はわりと近所の人にかまってもらったりしているんじゃないかな!
おばさま方に人気がありそうな気がしないでもないです。