幸福のすみか

「あ、久保君だ」
唐突に声をかけられた。
廊下を歩いている久保の心拍数は、その声で一気に跳ね上がる。
「やあ、吉井君」
できるだけ平常心のままで、久保は彼の方を振り返った。
吉井明久はノートのようなものを抱え、深刻そうな顔をしている。
「ねえ、久保君。お願いがあるんだけど」
「お願い?」
また心臓が跳ねる。もしも告白だったらどうしよう、とか、逆に恋の手伝いをしろとかだったら泣きそうだ、とか考えてしまって、思考回路がパンク寸前だった。
「な、なにかな」
うわずった声で久保が答えると、明久は困ったように眉を寄せて、こう言った。
「――宿題、教えてほしいんだ」
その表情がどこか悩ましげで、ドキドキする。久保は赤面するのを必死にこらえて、こう答えた。
「いいよ。ぼくにできることなら、なんでもする」
「やったー! 久保君は優しいなあ!」
ぴょんぴょん飛び跳ねて喜びを表明する明久を、久保はじっと眺める。そして、かわいい生き物だなあ、と思う。
「じゃあ、Fクラスの教室に行こう!」
しばらくぼんやりしていた久保の右手を、いきなり明久がつかんだ。
「うわっ……」
不意打ちだったので、対処が遅れた。
そのまま強く引っ張られ、手から伝わる彼の体温で血液が沸騰しそうになる。
「ちょ、吉井君、離し……」
「ゴーゴー!教室!ゴー!」
明久は久保の声など聞かずに廊下を前進しつづけていた。
自分の体温が急上昇していることを知られないよう祈りながら、久保はF組まで引っ張られていった。

「うげ、学年次席じゃん」
放課後のFクラスにはまだ数人の生徒が残っており、久保の顔を見て嫌そうな反応を示した。
その反応には気づいていないのだろう、無垢な笑顔を浮かべた明久は蜜柑箱にノートを広げ始めていた。
「このホーテーシキがわからないんだ」
久保は、明久が指さす方程式の解き方を、できるだけ噛み砕いた言い方で説明してやる。
「うむむむう?」
その説明がよく飲み込めないのか、明久は鉛筆をくるくる回しながら考え込む。
「だから、ここはこうで、……」
久保はもう一度、言い方を変えて説明する。明久は少し晴れやかな顔になり、文字を書き込みはじめる。
「ここでエックスがこうなるからー、もしかして、こう?」
「そうそう、その調子だ。吉井君」
思わずこぶしを握り締めて応援してしまいそうになる。一生懸命にノートに方程式を書いていく明久の挙動は、小動物みたいですごくかわいいのだ。ここが教室でなかったら、思わず抱きしめてしまいそうなほどに。
「いやー、やっぱ久保君はすごいね。もう一問解けちゃった」
明久はふわふわと空中を漂うような笑顔になる。それがまたとても愛らしくて、久保は悶えそうだった。
「いや、ぼくなんてまだまだ。吉井君の方がすごい。いつも元気で、笑顔で、愛らしくて」
「そうかなあ。ぼくはバカだし、観察処分だよ。久保君の方がかっこいいし、すごいと思う」
かっこいいし、すごい。その言葉を脳内で何度も反芻する。明久は、自分のことを好いていてくれているのではないか――そんな間違った思い上がりが浮上しそうになった。違う、明久はただ優しいだけだ。久保は自分にそう言い聞かせる。誰にだってかっこいい、すごい、と堂々と言える、そんな最上級の優しさこそが、彼の長所だ。この間も、同じクラスの男子を妙にほめたたえていたようだし。好きだ、とも言っていた。彼は誰にでも優しい、とてもとてもいい人なのだ。
 そんな優しい吉井明久だからこそ、自分は彼のことをこんなにも好きになってしまったのだ。
「やっぱり、吉井君はすごいな」
久保は小さな声でそう呟いて、少し笑んだ。
「あ、久保君、次はこれなんだけど……」
明久がまた、ノートを開いて式を指さす。そのとき、ふと、わざと方程式が解けないふりをしようかと思った。そうすれば、この二人っきりの時間がいつまでも続いていくかもしれない。彼が自分を親しげに呼んでくれて、自分が彼のために何かをすることができる、この理想的な空間が、できるだけ長く続いてほしい――そう思った。けれど、明久に失望されるのが嫌で、結局方程式は全部綺麗に解いて、教えてしまった。

 帰り際、「ありがとう」と言ってにっこり笑う明久の表情が非常にかわいらしくて、その表情を回想するだけで昇天しそうだった。家に帰って布団に突っ伏すまで、彼の笑顔が心を捉えて離さなかった。
 自分がもっとバカだったら、彼と同じクラスになれただろうか。同じクラスだったら、もっと一緒にいられただろうか。Fクラスの男子たちと親密そうに話している明久を見つつ、そんなことを考えることもあった。が、今日に限っては、自分が学年次席でよかったと思う。布団をぎゅっと抱きしめ、彼とかわした言葉を何度も反芻しながら、久保は幸せな眠りについたのだった。



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